批評の言葉(メモ)
中川達矢

※授業における発表の一部です。ご参考になれば、と。


ここでは、私が詩を読む時に意識する読み方を提示する。必ずしも先人の詩論者が言うことと同じではなく、私なりに詩を読んできた経験を活かし、見出した詩の読み方である。

・how-what
「how」…どのように書かれているか。定型やリズムがどのようにあるか。どのように文字が並べられているか。視覚的にわかること、および、聴覚的にわかること。もう少し踏み込むと、1行と1行の間における関係性がどのように築かれているか。
「what」…何が書かれているか。主題は何か。メッセージは何か。その作品を読んで、読者の頭の中でイメージできること。おそらく詩のわからなさは、このwhatの掴みどころに起因するのが大きいと予想されるが、それはhowの問題と関わっていることを意識しなければならない。

・マジカルバナナ
昔、テレビ番組で行われていた遊び。「バナナと言ったら黄色」→「黄色と言ったらレモン」→「レモンと言ったら酸っぱい」→「酸っぱいと言ったら梅干し」…という連想ゲーム。
これが何故詩に関わるのか。散文と詩の違いについて考えればわかりやすいだろうか。散文は、一つの文および一つの段落内において、一つの事象について説明される。だが、詩は改行によって、描かれている事象が飛躍することが度々ある。それは拙詩を見ていただいても見受けられることだろう。その飛躍に読者がついていけるかどうか。そして、その飛躍によって書かれているwhatがわからなくなってしまうのではないか。
 また、この遊びは、コンテクストゲームと言いかえることもできるだろう。それはつまり、「スカートと言ったらウニ」と私が言ったとしても、その答えが○になるか、×になるかは周りの者の判断に委ねられる。だが、「私にとってはスカートと言ったらウニなのだ!」と主張したとしても、そのコンテクストは、聞く者にとって「スカート言ったらウニ」というコンテクストがない限りは正解とならない。マジカルバナナはテレビ向けの企画であったから、その○×の判断は、できるだけニュートラルに行なわれていただろうが、この遊びを友達同士、家族、会社説明会などなど、場を変えて行えば、その○×の判断は、その場にいる者のコンテクスト次第によって変わってくるだろう。散文は、そのコンテクストを含めて、文章に描くことをするが、詩は、そのコンテクストを敢えて描かないということが多くあるように思える。
 飛躍とコンテクストがもたらす、詩のわからなさ。

・思考の言葉―観察の言葉
 これが大きなテーマとなる。先ずは、大まかな定義を示す。
「思考の言葉」…何かについて思考している言葉。出来事や知覚からは、時間・空間的に隔たりを持ち、何かについて想起している様子をあらわす言葉。
「観察の言葉」…何かについて観察している言葉。出来事や知覚をそのまま表しており、その対象とは距離が近く、眼前の事柄をあらわす言葉。
「わたしは今怒っている」と「ふざけるな」という例を挙げて考えてみる。
「わたしは今怒っている」は「思考の言葉」に属し、怒っていることを示しているのだが、これがもし発話された状況を考えてみると、少し違和感を覚える。冷静、淡々と自らの感情を示すように感じ、言わば、怒りの怒り性なるものが和らいで聞こえる。
「ふざけるな」は「観察の言葉」に属し、怒っていることを直截的に述べている。その怒りの怒り性は、生の感情として感じられる。
両者は、意味としては同等の効果を持つはずだが、発話として耳にした時、文字として目にした時のニュアンス・雰囲気は異なるものではないだろうか。
 そうした出来事や知覚を語る言葉は、その出来事と知覚との語り手の距離を示しており、そもそも書かれた文章を目にした時、読者は、作者がその出来事や知覚に対して距離を取っている(過去を語っている)と思うかもしれないが、その語り方によって、出来事と知覚との距離を操作することができる。
 だが、無人称的な語りも存在する。物(オブジェ)だけがただひたすらと語られる詩は、語り手と物との距離がつかみづらい。その時、語り手は一時、語り手としての姿を消され、その作中世界を創造するものとしての作者が絵画を描くために筆をふるうものとしてイメージすればよいだろう。これはどういうことか。
 ソシュールの記号論は、シニフィアンとシニフィエの恣意性という主張ばかりに目がつけられる。だが、彼は、言葉の線条性という性質も指摘している。この性質を一概には説明できないが、これも例によって考えたい。
「サッカーについて描写しなさい」と言われた時、どのようにこたえるだろうか。映像や画像であれば、一続きの動画や一枚の絵によって、瞬間的に示すことができるが、言葉ではそうできない。確かに「サッカー」という文字によって、「サッカー」そのものを読者に提示できるのだが、それもまたコンテクストの共有によって、伝わるイメージは異なってしまう。伝えるべき相手によって扱う言葉は異なり、何より、言葉の連鎖によって説明するしかない。「コートは〜〜ぐらいの大きさで、中央に〜〜ぐらいの円があり、両端にはゴールがある。そして、この時この場所におけるサッカーでは、審判が黒い服をまとい、左側は青の服、右側は赤の服を着ていた……」と延々と続く。このように、一枚のイメージを言葉で伝えるためには、同時的にそのイメージを伝えることはできず、一つ一つの文を重ねることで伝えることしかできない。これが線条性という言葉の性質である。
詩の一行一行は、そのような線条性の効果そのものと結びつき、作品に書かれた一行によって作中世界の一部を描き、改行されるごとに、作中世界がより描かれていく。また、詩の場合、厄介なのは、それが一枚の額縁の中で描かれていることもあれば、複数の額縁を利用して作中世界が描かれていることもある。
画家が筆をとり、一筆一筆の積み重ねによって作品を描くこと。その様子を詩の一行一行に置き換えていただければ、無人称の語り手における作品もイメージしやすいのではないだろうか。


散文(批評随筆小説等) 批評の言葉(メモ) Copyright 中川達矢 2013-07-10 22:47:39
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