ポエム論的、希望
Ohatu

現時点で、世の中で起きていることは、いったい何か。
大きく、2つの事実にまとめることができる。

ひとつは、生産性の過剰な上昇によって、本質的に労働者が過剰になっているということ。平たく言えば、世界に居る全人類が生きていく、あるいは、食べていくために、その全員が働く必要が無いということ。これは、一般的には技術の進歩と展開によるものと言われるが、もっと広く生産性を定義すれば、例えば戦争的な活動が極端に少ない平和状態や、いわゆるIT技術の発展にともなう物流の短絡化なども当然のことながらその要因であろう。
その単純すぎる帰結として、若年層における世界的な失業率の上昇、低賃金化という事態が生じている。

もうひとつは、消費欲求の停滞である。皮肉な話ではあるが、それは技術の停滞によって生じるものである。ここでいう技術とは、いわゆる科学技術のみならず、広告宣伝技法や芸術作品における革新、果ては思想哲学分野の学問的発展などすべてを指す。しかしながら、ありていに言えば「10年前の自動車を持つものが、最新のそれに買い替えようと思える理由として何があるのか?」というような問いに置き換えられる。
どんなに燃費が良くてもそれが買い替え費用を回収できるとはとても思えず、デザインを競ってみたところで所詮は旧来価値観上での優位性の見えやすさ・分かりやすさの追求であり、それすら高生産性の誘惑には勝てないというのが現実である。
何も車に限らない。むしろ、このような状況に陥っていない商品分野をすぐに思いつくことができない。

需要と供給は分子分母の関係である。技術の進歩によって見かけの供給は増加し、また、同時に技術の停滞によって需要が低下するという、冗談のような現象が起きている。世間で「不況」という言葉を使うものがいるが、そうではない。これは、単に「傾向」である。傾向である、ということはつまり、この不均衡がさらに増大される、と言っているのである。

私は、希望というものについて考えていたのえだが、考えを進め、多少調べごとをするにつれて、その難しさを実感する。希望を持てない、という若者の声も、ある種の冷静さとして受け止めねばならぬという気もする。

世界的に見て、この傾向に対抗する人々のとっている手段は、今のところひとつしかない。
それは、つまり、新たな価値の創造を試みることである。Sustainability、持続可能性と訳されるが、これも、普及にある程度成功した新しい価値のひとつと言ってよい。このように新しい価値基準の導入によって、生産性の低下と新たな需要の喚起を狙うわけである。
しかしながら、いよいよ、その新しい価値の提示も足踏み状態、そうでなければ弾切れ、あるいは受け手側の満腹というところまで来ている。ロハス、韓流、原発反対、愛国右傾なども長続きせず、価値観として定着しなかった。

世界は今、「新しい価値を創造できるもの」を渇望しているのである。それは、もう、芸術や文学や哲学や宗教の分野でも構わない、と世界は感じている。
そして、そのあと、世界の語る言葉は、「さもなければ、前世紀を繰り返し、戦争を起こすしか残されていない」と続く。新たな価値が生まれなければ、不均衡を是正するためには戦争しかなく、また、是正せず不均衡が行き着けば結果としてこれも戦争的な事態に陥るしかない。

文化か、さもなければ戦争か。冗談ではない。そういう最終判断のところまで来ている。

勘違いや妄想なら良いのだが、おそらくそうではないというのが今の確信である。


散文(批評随筆小説等) ポエム論的、希望 Copyright Ohatu 2013-06-20 12:53:45
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