自転車になる。——田中宏輔作品コラージュ詩
こひもともひこ

      不幸の扉。
扉自体が不幸なのか 扉を開く者が不幸なのか
     それは、 どっちでもいいんじゃない。
      だって 入れ替わり立ち代わり
扉が人間になったり 人間が扉になったりしてるんだもん。
     そうして
          そのうちに
        扉と人間の見分けもつかなくなって

    たすけて〜!
   だれか、ぼくの自転車、とめて〜!
  三代つづいて自転車なのよ。
 だれか、ぼくの自転車、とめて〜!

ひとって
自分の考えてることを
他人が
「違うんじゃないですか?」って
言うのを耳にすると
まるで自分が
否定されてるみたいに
感じちゃうところがあるからね。

 たすけて〜!
  だれか、ぼくの自転車、とめて〜!
   三代つづいて自転車なのよ。
    だれか、ぼくの自転車、とめて〜!

    涙が落ちそうになって

   「ああ、こころに原爆が」

    と思ってしまった。

    広島のひと、ごめんなさい。

    長崎のひと、ごめんなさい。

    かんにんしてください。

    こんな表現は

    とんでもないのやろうけれど

    ほんまに、そう思うたんで

    ほんまに、そう思ったことを

    書いてます。

    たすけて〜!
   だれか、ぼくの自転車、とめて〜!
  三代つづいて自転車なのよ。
 だれか、ぼくの自転車、とめて〜!

善は急げ、悪はゆっくり。
どう急ぐのか
どうゆっくりするのかは
各自に任せられている。

 たすけて〜!

善と
悪の双方に。

  だれか、ぼくの自転車、とめて〜!

書いてはいけないことを書いてしまったからだろうか。
書いてはいけないことだったのだろうか。

   三代つづいて自転車なのよ。

ぼくは、見たこと
あったこと
事実をそのまま書いただけなのに。

  三代つづいて自転車なのよ。

あらゆる言葉には首がある。
音ではない。
音のない言葉はあるからね。

無音声言語って、数学記号では
集合の要素を書くときの縦の棒 | 

あらゆる言葉には首がある。
すべての言葉に首がある。
その首の後ろの皮をつかんで持ち上げてみせること。
まるで子猫のようにね。

言葉によっては
手が触れる前に、さっと逃げ去るものもあるし
喉のあたりをかるくさわってやったり
背中をやさしくなでてやると
言葉のほうから
こちらのほうに身を寄せるものもある。
まあ、しつけの問題ですけどね。

      たすけて〜!
     だれか、ぼくの自転車、とめて〜!
    三代つづいて自転車なのよ。
   だれか、ぼくの自転車、とめて〜!
  そして、最期には、自転車になって終わるっていうわけやね。
 わだば、自転車になるぅ〜!

自分のこころが、ある状態であるということを知るためには、まず客観的に、こころがその状態であるということがどういった事態であるのかを知る必要がある。そして、もっとよく知るためにはこころが、その状態にないということがどういった事態であるのかをも知っておく必要がある。
詩は、
自分がどう書かれるのか
あらかじめ詩人より先に知っている。
なぜ書かれたのかは、
作者も、
詩も、
だれか、ぼくの自転車、とめて〜!
だれも知らない。
そして、最期には、自転車になって終わるっていうわけやね。
わだば、自転車になるぅ〜!


◆◇

この作品は田中宏輔さんのたすけて〜!『点の、ゴボゴボ。』をコラージュした作品で自転車になるぅ〜!す。
オリジナルはこちら→http://atsusuketanaka.seesaa.net/archives/200910-1.html


自由詩 自転車になる。——田中宏輔作品コラージュ詩 Copyright こひもともひこ 2013-06-19 23:52:47
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