That's fiction bunny
済谷川蛍

 どうにも不安な夜がある――。

 だいぶ前から、夜になると潮が満ちるように暗鬱な気分に浸るようになった。夜っていうのは、そういう孤独があるものだと、最初の頃は粋人ぶったりしていたが、最近はおびただしい不安に胸を蝕まれるようで、恐怖しか感じなくなってきた。アイツが現れたのは一ヶ月くらい前だろうか。
 アイツというのは、ウサギだ。ベッドの上で夜の気配にヤラれてくると、ヤツが現れる。最初は他愛もない錯覚だと思ったが、どうやらそんなヤワなものじゃなさそうだった。ウサギはぽぉんとボールがハズむようにこちらに飛んできて、目の前に止まったかと思うと、またぽぉんと飛んで、窓ガラスをすり抜けて闇に消える。幻覚というものを面白いものだと思っていた俺はリアルじゃなかった。実際にはこんなにも厄介な、恐ろしいものだったとは。ウサギの幻覚に人生を狂わされ、"普通の人生"から脱線してしまったことを実感し、夜に限らず昼の世界の風景も、何もかも変わった。ノーマルでなくなることがこれほど恐ろしいとは、そして自分がそうなってしまうとは、本当に夢にも思っていなかった。

 今日もアイツは現れた。部屋の隅で、何かごそごそしている。その仕草や、容貌などを暴き出して分析してやりたいが、何とも不明瞭なのだ。視線をやると消えている。
 一体ヤツの目的は何だ? なぜ俺にまとわりつく? 絶望とは、まさにこのことだ。俺は心の中でやつに語りかける。
 「お前は俺の命が目当てなのか? 俺の人生は終わっちまった。こんな安い命くれてやる」
 やつは一向に構わず、辺りをうろちょろしている。
 「ジャマなんだよ」
 ウサギはぽぉんと窓から飛び降りた。だが、憂鬱は相変わらず続いた。
 病院に行った。医者にはウサギのことは話さず、ただ説明のしづらい憂鬱のみを語った。ソラナックスという薬を処方された。
 今夜も現れる。きっとヤツは俺のことが好きなんだろう。そういう風にしか愛することが出来ないやつは人間の中にもいる。哀れなやつだぜ。
 ふっと俺は笑った。後はもう、夕食のあとに飲んだ薬が効きはじめるまで中空を見つめ続けるしかない。暗闇の中で俺の腹が蠕動している。
 ウサギよ、お前は一体何者なんだ。自然淘汰というやつか。毎年、毎年、必ず自殺者の数が変わらないのは、何か見えない力が働いているからなのか。そして、俺も、その力に殺されるのか。俺如きに、よくも熱心なやつだ。思えば、今まで多くの人間が死んだものだ。俺は怖くないぞ。俺よりもっと悲惨な死に方をするやつもいるからな。お前は俺と心中したいのだろう? 俺はお前のことを愛してやってもいいぜ。俺は誰にも愛されない人間だ。俺もお前を必要としているかもしれない。なあ、愛し合おうぜ。
 ヤツはぽぉんと窓に向かって飛んだ。俺は思わず手を伸ばした。だがヤツの小さなしっぽを軽くかすめて、俺の手は虚空を握った。ウサギは消えた。恐怖もいつの間にか消えていた。
 あの日から、夜気に脅かされることは無くなった。たまに、あのウサギのことを恋しく思うときがある。


散文(批評随筆小説等) That's fiction bunny Copyright 済谷川蛍 2013-06-10 23:48:12
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