山田亮太詩集『ジャイアントフィールド』について
葉leaf
詩はなぜ「難しい」のだろうか。詩はなぜ「わからない」のだろうか。それは、「わかりやすい」文章が一義的であるのに対して、詩は多義的であるからだろう。解釈が一通りに容易に定まれば、何も難しいことはない。だが、そもそも解釈が思いつかないような場合や、解釈がいくらでもありどの解釈をとったらよいかわからないとき、人はその文章を「難しい」と形容する。そして、詩が単に多義的であるならばまだ救いはあるかもしれない。これだけ多様に解釈できるということは、好きな解釈を自由に選択していいということだ、と読者は開き直れるからである。だが、解釈が両義的であったらどうだろう。つまり、相反する二つの解釈が同時に成立し、しかもそれらの解釈に優劣がつけられないとき、詩はまったくもって「難しい」ものとなるであろう。両義性を両義性のまま受け入れること、矛盾や対立をそのまま受け入れること、結局「詩がわかる」ということは、そういうことでしかありえない。
その問題について考えるにあたって、山田亮太の詩集『ジャイアントフィールド』(思潮社)を俎上に上げよう。この詩集は、断片的な記述からなり、「雪だるま」「兄弟」「ポチ」「双子」などユニークでユーモラスなキャラクターが多数登場し、それらがブラックユーモア的に増えたりおかしなことをしたり、そして詩の空間で次から次へとおかしなことが起こっていく、そういう詩集である。
ここから見えるもののすべてが知らない形をしている。
これは二〇〇一年の恐怖だ。まただ。
またウサギが降ってくる。死体。
街灯だけになった街を歩く。
人のいない場所に人がいる。それを誰かが見ている。
もう何年も誰も座っていない。
そのベンチの上で踊りつづけている人がいる。
歌を歌いつづけている人がいる。箱を運びつづけている人もいる。
もう二度と運ばれることがない。それを誰かが見ている。
(「エコシステム」)
山田の文体は非常に簡潔である。そこには複雑な文彩は出現しない。だから、山田の文章はある意味わかりやすい。ところが、それは文を単位とした分かり易さであって、文が積み重なっていくにつれ、読者はだんだん山田の描く「世界」が分からなくなってくる。山田は言語によってシャープなイメージを作り出している。その文体のシャープさによって、詩の輪郭をはっきりとさせている。ところがそこに現出する世界では、「また」「ウサギが降って」きたり、「人のいない場所に人が」いたり、「ベンチの上で踊りつづけている人」がいたりするのである。言語によって事物を簡潔に描き、言語の持つイメージの喚起作用をダイレクトに利用していることはわかるが、そこに描かれる「世界」は奇妙で謎に満ちている。山田の詩は、この世界と同じだけの連続性と稠密性を持った世界を生み出しているようには思えない。そこにあるのは、彼の一文が短いことからも示唆されるように断片的で、彼のもたらすイメージが奇異であることからわかるように不整合な、「世界」とも呼べない空間なのである。
我々の現実は豊穣で連続的である。言語とは、その連続性をある意味破壊するものであり、だから我々はいつも「言葉にならない」物事の多さに悩まされるのである。言語とは、現実を区切り取り、抽象化し、他者との間で交換可能なものへと変換する装置に過ぎない。だが、だからといって言語芸術が一様に連続性を持たないと決めつけられるわけではない。言語芸術は、受容者においてその隙間が埋められることによって、再び連続性を獲得するのである。我々が小説を読んでいるとき、我々は自動的に、この言語の再連続化を行っているのである。
ところが詩はそうではない。詩は受容者における再連続化を期待しない。受容者によって一義的に世界が再構成されるのを阻み、あくまで世界に対する抵抗体としての言語そのものに関心を当て、言語の生み出す別の可能性に期待を寄せるのである。つまり、一様で均質な世界を生み出すのではなく、いたるところで分裂し火花を来す、詩人の想像力をいかんなく発揮できる空間を生み出すのである。詩人の想像力が現実のくびきを離れ「踊りつづけ」るところに、現実とは別の新たな連続性を生み出すのである。それは、詩人の意識も無意識も詩人を取り巻く環境も、何もかも包み込む連続性であり、そこにおいて詩人は忘我の境地にいたれる。
山田の詩は、言語によってシャープにイメージを区切り取り、また不整合な空間を生み出すことで、現実世界の連続性を破っている。その意味で不連続である。だが、自らの想像力の自在な奔出に身を任せ、そこに自らを惜しみなく費やしていくという意味で連続的である。さて、ここに彼の詩の両義性が見て取れるのではないだろうか。山田の詩は連続的であると同時に非連続的でもある。しかも、そのどちらのとらえ方も間違ってはいず、優劣がつけられない。
バス停から歩くこと五メートルの地点に雪だるまは立っていた。街灯は雪だるまを唯一無二の雪だるまであるかのように照らし出していた。雪だるまから歩くこと三十メートルの地点に雪だるまは立っていた。この町のこどもたちはまだ起きていた。悲しげに震える雪だるまの目はカーテンの隙間からこぼれる窓の光を見つめていた。雪だるまと雪だるまをやり過ごしたところに電話ボックスは立っていた。電話ボックスの中に雪だるまは立っていた。ぶら下がる受話器は雪だるまの声を待つものの存在を予感させた。
(「雪だるま三兄弟」)
ここでもう一つ山田の詩の両義性を明らかにしておこう。山田の詩に特徴的なことは、同じ言葉を執拗に繰り返すことである。もちろん、同じ言葉であっても、それぞれが違う対象を指示していたり、違う文脈におかれていたり、様々な差異が組み込まれていたりはする。それでも、やはり同じ言葉は同じ言葉なのだ。この同じ言葉の増殖に、何か不穏なものを感じないだろうか。ここでは、「雪だるま」という言葉が繰り返されている。それぞれの「雪だるま」の意味は当然違うだろう。しかし、「雪だるま」という衣装によって、それぞれの偏移は常に修正されているように思えないだろうか。つまり、詩の展開、世界の動的開示、それに逆らうように、「やっぱり雪だるまなのだ」という同定作業が延々と続いていかないだろうか。これは、シニフィアンとシニフィエを分離すれば済むという話ではない。シニフィアンは繰り返されるけれどシニフィエはその都度異なるなどという話をしているのではない。そうではなく、シニフィアンの繰り返しにより、シニフィエもまた揺り戻され、同一性への回帰にさらされているように思われる。つまり、「雪だるま」の執拗な繰り返しは、多様な雪だるまを生み出し、雪だるまを増殖させているかのようでありながら、他方ではその変えられない同一性を逐一確認してもいるのではないだろうか。つまり、「雪だるま」は増えているようで減っている。本来だったら「雪だるま」以外の言葉で指示されるはずだったものさえも、「雪だるま」と指称されることによりその存在が減らされているようにも思われる。山田の同じ言葉の繰り返しには、その対象を増殖させると同時に、対象の差異を殺して行っているという両義性がこもっているのである。
本来、言葉というものは文化や秩序の側に属するものであって、多義性や両義性が生じるのは、文化や秩序に回収されていない周縁の領域、言葉にならない領域のはずであった。文化は社会に一義性を要求し、多義的なものを排除する。それこそ、詩が「わからない」「難しい」として排除されやすいように。だが同時に、文化はそのような多義的なものと接することにより活力を増すのであるし、文化自体も秘められた多義性を持っている。山田の詩は、連続的であると同時に非連続的、対象を増やすかのようで減らしている、そのような意味で両義的であった。しかし、この両義性は、何も言語の周縁に位置するものでもなく、詩人がその想像力を「ありのままに」発揮させれば自然と生じてくる両義性なのである。いわば言語はその内部から両義性を生み出すのであり、言語はそれ自身として両義的なものだといわなければならない。詩的言語に接するとき、我々は、それを言語の周縁、異常物として扱うのではなく、言語そのものが内在する言語の本質だとしてとらえねばならないだろう。そして、言語が両義的であるならば、それを両義的なままとして、決して安定したものではなく不断の批判と反省にさらされ、どちらの極にでも傾きうるものとしてとらえるのが正道ではないだろうか。