さよならルル
吉岡ペペロ

「ぼくはなんで泣いてるんだろう」

蛙のルルは、そう鳴きました。
夜空に星が見えました。
星からの光線がとてもまぶしくて、ルルは目をしばたたかせました。
「ぼくはなんで目をしばたたかせてるんだろう」
蛙のルルは、こんどはそう鳴きました。

ルルはとろりと炭色によどんだ水面を見ようとしました。
でもルルの目はうえを向いたまま。
ここはルルが数えきれない仲間たちや兄弟たちと生まれ育った場所です。
泡のように生きて、消えて、ルルにはじぶんがうつつか夢かも分かりませんでした。
水面に、今夜の星がひときわ冴えやかに映っています。

「ぼくはなんにも思い出せない」
ルルはそう鳴いて、
「思い出したことなんかないのに、思い出せないってへんだな、思い出したことなんてあったっけなあ」
ルルはなんだか可笑しくなってまた鳴きました。

水面は星畑で、夜風のたてる音にきざまれています。
うしろからリリの鳴き声が聞こえました。
「ルル、あそぼうよ、ルル、あそぼうよ」
なまえはふしぎです。
なんにも思い出せない蛙たちなのに、なまえだけは忘れずにおぼえているのです。
「リリ、ぼくもきみを待っていたよ」
ルルはここのところ、いつも気だるい気分でした。
毎日毎日、蚊や蝿がうんざりするほど飛び回っていて、いつもいつもお腹が一杯なのです。
なのに心はざわついて、満たされた気持ちにはならないのです。
それは尾で泳いでいたのが、ある日とつぜん水を蹴って飛び出した時と似ていました。
「あ、あのときのことはおぼえてる・・・水を蹴って飛び出したときのことは」
ルルは蚊や蝿をたくさん食べたあと、いつもあのときのことを思い出すのです。
水を蹴って空気にふれてしまったあのときのことを。

池のほとりには靄がかかりはじめています。
靄に月明かりがほの赤く溶けています。
「リリもそうなのかなあ」
ルルが鳴き声を響かせます。
ルルはバック転をしてリリの葉っぱに飛び移りました。
リリはちいさな反動に弾みながら、にっこりと微笑みました。
「あら、ルルもなの?」
「リリもなの?」
「仲間のなまえとあのときのことは、おぼえているわ」
「あのときのこと・・・かあ」
「だって、尾で泳いでたときのほうが・・・」
「きもちよかった!!」
ふたりは同時にそう鳴きました。
「蚊や蝿も、たくさん食べるときもちよくないよね」「だってあたしたち、生きるために食べるのが・・・」
「きもちいい!!」
また同時に鳴きました。
「まんぷくだとだるくなっちゃうもんなあ」
「そう、そうなのよ、満たされるとそうなるのよ」
ルルはリリと見つめ合いたいと思いました。
でもそれは無理でした。
ルルの目もリリの目もいつも上を向いていて、見つめ合うことはできなかったのです。

大きな影がルルとリリの上を横切りました。
隣の葉にいたガブが、影にくわえられて星空に吸い込まれてゆきました。
「バカな蛙たちが、今年も池から出てきたよ」
どこからか歌うような声がします。
「親も知らない子も知らないただ生まれて死ぬだけのバカな蛙たちが出てきたよ」
ルルとリリは身を寄せました。
「親ってなに?」
「知らない」
「子ってなに?」
「分かんない」
「仲間たちのことかなあ」
「兄弟たちのことかなあ」
ルルのまわりには仲間か兄弟か、ルルを襲うものかルルが食べるものか、まったく関係のないものか、そんなものしかいませんでした。

「ルル、ルルがガブでなくて良かった」
リリは上を見上げたまましっとりとした声で鳴きました。
「リリ、リリがガブでなくてよかった」
「ガブってなに?」
「ガブ?」
ルルもリリももうガブのことは忘れていました。
「おろかな蛙よ、またあした食べてやるからなあ」
またどこからか歌が聞こえてきました。
「こわい、ルル」
「大丈夫だよ、リリ」
うえからなにかが落ちて来ました。
水面の星畑がやさしく揺れています。
ガブのうしろ足でした。
ルルもリリもうえを見つめたままなのでそれには気づきませんでした。
気づいたとしてももうガブのことは思い出せません。
蛙は生きている仲間たち、兄弟たちのことしか、考えられないのです。

池のほとりにたくさんの仲間の影が上がっていました。
折り重なっているもの、争っているもの、影たちが月明かりの赤い靄の向こうにうごめいています。
ルルの胸がざわめきます。
「リリ」
リリは上を向いたまま動きません。
「リリは上がらないの?」
リリの澄んで濡れた大きな目には、池のほとりの靄など見えてはいないようでした。
リリの目はうっとりと星を映しています。

「ぼくはあそこにいくよ」
「なんで?」
「理由なんかないさ」
「いかないで」
「いっしょにいこうよ」
「このままお空を見ましょうよ、ルル」
ルルはリリに押し切られました。
「ルル、いかないの?」
「うん」
「なんで?」
「理由なんか・・・ないさ」
ルルはリリにとめられたことをもうおぼえていませんでした。

「リリ、ぼくはなんで忘れちゃうのかなあ」
星空がにじんでいました。
「リリ、ぼくは泣いているよ」
「ルル、あたしも泣いているみたい」

池のほとりの赤い靄には、蛙たちのあやしい影絵が揺らめいています。
「ぼくはあそこにはいかないよ」
「あそこにはルル、いかないで」
「いかないよ、リリ」
「ありがとう、ルル」
葉っぱには、ルルとリリのなみだがたまっています。

いつのまにか池のほとりの赤い靄が晴れていました。
卵のような月が柔らかな光を投げています。
「ぼくは足なんかいらなかったんだ」
ルルがなみだをこぼします。
「水の中にいたときの方が自由だったんだ」
「あのときは、水の中を飛べたもの」
リリもなみだをこぼしています。
「からだが軽くてどこへでも行ける気がしたわ」
ルルとリリは初めてその目の中におたがいの蛙の姿を見ました。
なみだでひかりが乱反射して、いろんな方向の景色が目にはいっていたのです。

「ぼくたちはきっと今日のことも忘れてしまう」
ルルが続けて鳴きました。
「ぼくたちはぼくたちでないものになれないんだろうか」
ルルは「ぼくたち」という言葉を使ったことにハッとしました。
リリの目にはルルが映っていました。
ルルにはそれがじぶんなのかリリなのか分からなくなっていました。

ルルはとつぜん葉っぱからお腹がはがれるのを感じました。
ルルはおおきな影に連れ去られていました。
「ルルー」
「リリー」
「痛いよー」
「フクロウさーん、ルルをかえしてー」
「リリー、痛いよー」

ルルは痛いと叫びました。
「痛いけどきもちいいやあ」
そんなことも感じました。
口からでるのは、「痛い」。
きもちは、いい。
このことをリリにも伝えたい。
きっと、ガブもそうだったんだ。
ガブ?
あ、さっき連れ去られたガブ!
あれ、なんかいっぱい、思い出す、尾で泳いでいたときのこと、リリと見つめ合えたこと、あれはなみだの乱反射、あー、きもちいい、痛いのはやだ、でも、ぼくは、自由、自由、思い出があれば、どこへでもゆ、け、る、フクロウさーん、思い出があれば、ぼくたち、は、じ、ゆ、う

リリのまえにちゃぷと音をたててルルの足が落ちました。
「さよならルル」
リリはいまなんで鳴いたのかもう忘れていました。
リリがまたちいさく鳴きました。

「あたしはなんで泣いてるんだろう」


自由詩 さよならルル Copyright 吉岡ペペロ 2013-05-17 13:13:02
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