借り物のからだ
中川達矢
きみの死を少しだけ貸してほしい。すると、きみは少しだけ長生きして、ぼくは少しだけ早死にすることになるのだろうか。それはわからない。むしろ、そうすることで、一緒に死ぬことができるのかもしれない。ただ、それは、誰の望みなのだろうか。
ぼくの死は、ぼくのもので、きみの死は、きみのもの。代わりに担うことはできない、ひとの死。ぼくは、ただひたすら、ぼくの死を全うする。それと同時に、ぼくの生をも全うしているのだ。
ぼくのからだは、ぼくのもの、というわけでもない。ぼくが、学校に行って、勉強して、家に帰って、ご飯を食べて、寝ることは、誰の望みなのだろうか。ぼくだけの望みだとしたら、ぼくのからだは、ぼくのためにあると言えるが、きっと、そうではない。誰かの望みを背負っているぼくのからだは、その誰かのためにある。
きみのからだは、きみのもの。だから、大事にしてほしい、とぼくが思ってしまうと、きみのからだは、ぼくに望まれてしまい、きみのものではなくなってしまう。ならば、ぼくは、誰に何を望もうか。
生を望むことは、同時に、死を望むことだ。生には、必ず、死が含まれている。それでは、死を望もうか。それなら、同時に、生をも望むことになる。死ぬためには、生きていないといけない。死んでからは死ぬことはできない。
きみは、ぼくの死を借りてくれるだろうか。もし、借りてくれれば、ぼくのからだは、少しだけきみのものになる。
望むなら、くれてやる、このからだと死を、そして、生を。