暗転、現実と前提
Ohatu
希望と文学の関係を知ろうと思った。そして、漠然と、ユーチューブで映画の批評を見てみた。単純に映画という作品のほうがたとえば文学的なものと比べて圧倒的に反応が多い。それ以上の理由は特にない。
漠然とユーチューブを見ると、漠然と人気や話題のある人物や作品にたどり着く。今回の場合、園子温と細田守だった。
園子温監督は、びっくりするほど「普通の監督」だった。インタビューを見ると、とても論理的で、かつ、職人的だ。奇抜だとコメントされる撮影技法ですら、彼の考え方を踏まえると、何ら不思議ではないと感じた。狙った反応を得られるよう、抽出し、誇張する、というシンプルな作業に見えた。しかし、彼と彼の作品から、彼が口にするほどのメッセージ性を感じることはなかった。どこか冷めている。その冷めているとう表現は、彼自身が彼自身をよく観察していて、無理をさせないようにしている、ということに近いかも知れない。
細田守監督も普通の人だと思ったが、周りも本人も宮崎駿監督を意識しすぎているのではないかと思った。一言でいうと、かけた金のもとを取ってはいるがそれ以上のことをしようと欲をかく人間ではない、という印象。園監督は違った意味で、冷めている。
そういう思いから、彼らの作品に対する反応を見てみると、どれも、無意味に大げさに、肯定し、または、批判し、何のためにそこまでユーチューブの動画やコメント、あるいはラジオの1コーナーごときで己を主張せねばならないのかと、理解に苦しんだ。作品への反応というより、作品を借りた自己主張なのだ。それも、ただ自分に能力があるのだということを主張したいだけに見え、哲学や主義、理想に触れるわけでもない。
概して、無駄な時間だったが、気になったことがあった。
細田監督の、おそらく最新作に、おおかみこども、という作品がある。それへの批評で、それはかなり長いコメントだったが、つまり、「女性が母として完璧すぎる、許せない」というようなことだった。このコメントを読んだとき、何とも言えない気持ちの悪さを感じたのだが、それをひも解いてみると次のようなことだろう。
まず、このコメントの主が、若い女性で、未婚で子供も居ないということ。自分が経験していない、母というものに対し、何をもって完璧すぎると言えたのか。
次に、これは映画である。理想的に書かれることはある意味当たり前だ。それについて、このようなコメントをすることに恥ずかしさは無かったのか。あるいは、それを乗り越えても言わずにはおられないような批判だったのか。
最後に、これは自信が持てないのだが、他のコメントを見る限りにおいては、それほど登場人物の女性は楽な、あるいは、順調な経緯を辿っているわけではないと思える。つまり、いわゆるアニメにありがちな苦労をしながらも微笑みを絶やさず…ということが予想されるわけだが、そういう過程を経てすら、コメントの主は何か登場人物の幸福が許せなかったのだろうか。ちなみに、エンディングが、ハッピーエンドかどうか、知らないが。
これから推測されることは、非常に単純だ。このコメントの主は、何かしら良い母にならなければならないとの観念があり、それが難しいことだと感じている。自分にとって難しい(と思う)ことをできてしまう他人が許せない。アニメーションのような架空の世界であっても許せない。単純化すればそういうことだ。
この、単純で、それ故に強い攻撃性こそが、気持ち悪さの正体だ。
そう思い、いろいろなものをインターネットで読んでみた。そして、「できないことを肯定する」「できなくてもよいことにする」「できる人への憎悪を露わにする」というやりとりが一般的に行われているということを知る。これは、大きなショックだった。
なぜ、ショックなのか。彼ら彼女らにとって、美しい世界とは、決して希望を与えるものではなく、ただの憎悪の対象なのだ。努力すれば手に入るもの、というのは彼ら彼女らにとって、無いも同じ。努力をすることさえ、「わたしには才能がないから、努力できない」と言い放つのだから。努力をすることにどんな才能が必要なのか僕には分からないが、少なくともたったひとりの人物がそう語っているというわけではないのだ。ほとんどそれは、自分が幸せになるより、他人が不幸になることのほうが喜ばしいと言っているのと同じだ。そんな負の感情を、公然と、さも当然のことのように晒している。
この恐ろしい闇は、ここ数日、頭にはりつき、なかなか消えていかない。