今からちょうど5年前、2008年の4月20日に真美鳥というバンドが『ピラニア』というアルバムを発売していて、それをことあるごとにもうずっと聴き続けて いる。
別にゼロ年代の総評をしようっていうわけではないし、そもそもできないのだけれ ど、岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』の大江賞受賞が、ちょ うどこの2008年4月に発売された群像で発表されている。そこからすこしさか のぼると映画「恋空」が2007年11月3日に公開されていて、サブカル界隈で は『ゼロ年代の想像力』が2008年7月に発売されている。あの頃はセカイ系と いう言葉が死語になりつつある時期だったのかもしれない。
そんな時期にだされたこのアルバムが、じゃあいったいどういうものなのかという ことなのだけれど、実はまだ上手く捉えきれてなかったりする。そこまで難解とい う手ざわりがある訳でもないのだけど、決してわかりやすいというものでもないと 思う。
このアルバムはとにかく形容しずらいものではあるのだけれど、音楽のジャンルと しては、とりあえず当時まだ形をたもっていたフリー(ク)フォークのムーブメン トにくくってみてもいいのかもしれない。フリークフォークってなにって感じだけ ど、なんだろう、うたてきなものにフォーカスをあてていった運動のようだとまず は思える。うたてきなものってなにって感じだけど、それはほんとなんだろう、別 にうたわれてなくてもうたが息づいていればうたてきなのだろうし、なんだか叙情 だったり郷愁だったりという気分的なものに寄るところが大きいのかもしれない。 ただそれがポップに響くことがあったとしても、ポップミュージックの定義とは違 うポップさであるようには思える。なに言ってるのかわからなくなってきた。結局 はイギリスで着火して広がっていったような、いわゆるインディロックシーンとは 違うところで、なんかおもしろいことやってるなっていう人たちをとりあえずひと くくりにしたのがこのシーンの実態だったりする。だったりもするし、自覚的では ないのかもしれないけれど、このアルバムはどこかこのシーンと呼応するものが あったということだけは、ここに述べておきたいと思う。
アルバムの収録曲についてこれから詳しくみていきたいととおもう。もうこのアルバム のほとんどの曲がネットでは聴くことができないのだけど、ここから1曲目の「ピ ラニア」という曲が聴けます。
http://www.myspace.com/mamitori
なまっぽい。この曲アルバムのなかでもいちばんのポップソングなのだけれど、言 葉も含めてすごくなまっぽい。あと言葉のはいりがすごくいいと思う。ふだん会話 を聴き取る時のように、言葉がすっとはいってくる節がある。
言葉を口にするってどういうことなのかなと思う。頭でちゃんと考えてかっちり発 言することもありはするけど、常時そうしていくのはきっとしんどい。ふだんは もっとてきとうで、言葉は反射的に繰り出されていたりするものだし、たとえ考え ていたことがあったとしても、手癖で出てくる言葉がさっと内容をふちどっていた りもする。それに感情的になったら気持ちがばーっととまらなくなったりもする。 なんだか言葉を口にするということは、経験や環境に基づいたところで、身体と頭 と心が密接に関係しあって、時間の流れの中で発せられていくみたい。当然それは 文字表現とはぜんぜん違う発露のされ方であるのだろう。
ここで話を曲に立ち返らせたいのだけれど、この曲はどこか考え抜かれた詞をか ちっとうたおうっていうよりかは、音楽にあわせて身体と気分をもっていって、そ こから言葉をだしているニュアンスが強い。たぶんすごく自覚的にそれをやってい ると思う。
この曲は序盤で”ピラニア ピラルクー アロワナ アマゾン ”と名詞を羅列して 世界を拡げていってからは、日常会話レベルのひらたい言葉が使われている。さっ とでてくるような、言葉の引き出しの中でもいちばん手元におかれているような、 そんなひらたいやつが使われている。このやけに耳なじみのいい言葉は、メロ ディーとあいまって一見ポップなてざわりではあるのだけれど、よく聴くと実はな んだか複雑なことをやっているようでもある。
複雑なことって具体的にどんなことをしているのだろうか。この曲の言葉につい て、ここから詳しくみていきたいと思う。
まずは中盤に”あいするひと あいすること 好きなひと 好きになること”という ラインがある。これ途中までは意味が重複しているようで、でも最後の”になるこ と”とくるところで少しぶれていく感触がある。あいするひともあいすることも好き な人も、だいたいはおんなじようなことだよってぽつぽつとおかれていくようでは あったのに、最後にあれやっぱちょっと意味あいちがうかもっていってぶれていく 感触があるのだ。 で、そこから”いやなこと こわいこと 忘れたころに おもいだす”とネガティブ な方向に落ちていって、そして”キミのこと おもいだす あなたのこと おもいだ す”と続けられている。 ここでまず気になったのは、”キミ”と”あなた”という、二人称が言葉をかえて繰り返 されているところ。これは流れとしては”キミ”というひとつの対象を、”あなた”とい う言葉で強調だったりつのらせていくトーンが強い。ただやっぱり”キミ”と”あな た”という言葉にはちょっとした差異があるもので、”キミ”が”好きな人”に、”あな た”が”あいするひと”にかかったりすると、キミだったりあなただったりするものが ブレていくようでもある。
そもそもこの”あいするひと”と”好きな人”というのが、同一人物たりえるのかという のがある。だれかが一人の人に恋愛感情をいだいているとして、その人のことを好 きだしそのうえあいしている、という状態はありそうといえばありそうではある し、”好きな人”だったけど今は”あいするひと”、みたいな時間経過による変化は一般 的に受け入れられているようにも思える。ただ大体の場合において、人はどちらか を選択して(あるいはさせられて)いるような気もする。ちょっと微妙なところ だ。どこかぼんやりしている。そんな微妙だったりぶれている部分が、(結果つ のっていく方向にあったとしても)連鎖的に”キミ”と”あなた”をかっちりとしない、 ある種不安定なものにしているところはあるように思える。そうやって”キミ”と”あ なた”の距離が、強く重なったりやんわり分離していったりしている。
そんな”キミ”という言葉の意味あいについては、さらにその後サビ(?)に入っ て”君等”という、今度は複数形の二人称がでてくることで、また違った性質を帯び ていくことになる。終盤の流れと対比されて”キミ”はもっとパーソナルな立ち位置 に寄っていくようでもあるし、別の言葉がでてくることでより存在がゆらいでいく ようでもある。ちょっとした君の危機である。
ではそもそもここにでてきた”君等”というのは、いったいどういうものなのだろう か。終盤の部分もみていこう。
まずこのサビについてなのだけれど、展開としてはここで一気に言葉の質が変わっ てきているのがわかるかと思う。中盤まではおきにいっているというか、言葉がど こかに強く向かっていく訳ではないのだけれど、サビに突入すると”君等”という対 象に向かって、言葉が投げかけられていくようになる。
そんなこのサビの冒頭は”あんまり 暗いこと 悲しいこと いわないで”というラ インからはじまる。暗いことや悲しいことをいってしまうことはだれにでもあるこ となので、ちょっと広めの対象に向かっているようではある。ただ中盤の”いやなこ と こわいこと”をおもいだす人にまずは視線がむけられているように思える。もち ろんこの”いやなこと こわいこと 忘れたころに おもいだす”ひとは”君等”の対象 にも入ってくると考えていいだろう。ただ問題なのはその”いやなこと こわいこと 忘れたころに おもいだす”のがだれなのかわからないというところにある。おも いだすのが直後に出てくる”キミ”となればいくぶんすっきりしているのだけれど、 主格である「ボク」となってくると話は全然変わってきてしまう。サビの前後で主 格が別のところに移ってしまうからだ。「ボク」だったものが”君等”の一員として 呼びかけられていく構図になるのである。いろいろ考え込んでいくとややこしく なってくる。ただでさえ”キミ”が”あなた”や”君等”の間でゆらいでいたのに、主格の 存在自体も不明瞭なものになってきていて、そのうえボクがキミであったりなかっ たりしている。かなりむちゃくちゃになってきている。魚や鳥や地名が具体的に挙 げられていくくせに、人の存在が結構あやうい。 ”世界の すみから すみまで ゆきたい”とはじまって”君等は これから 未来へ ゆくのさ”ととじられているこの曲は、拡がりをもたせたポジティブなトーンでき れいにつながっているようではあるのに、これだれが言ってるのっていうわからな さがある。
それがリアリティをともなった言葉としてアウトプットされているからちょっとた ちが悪い。実存はあやふやなのに実感がこもって響いてくる。 そもそも単純に語感がいいから”君等”という言葉が使われているっていうのは絶対 にある。言葉を出すってそういうものだとは思う。結局気持ちだったり気分のよう なものが伝わればその時点で勝ちなのかもしれない。ふっと口ずさんでしまうよう な魅力的なうただねっていうところにこの曲はなんだかんだ行き着くのかもしれな い。ただやっぱり人の存在がつかめないっていうひっかかりが残っていたりする。
そういうのをいったりきたりしていて、つまりバランスだったり落としどころが絶 妙で、もう5年近くこの曲を聴きつづけている。
他の曲もすごく聴き応えがある。 全体の流れをみてもこのアルバムは秀逸で、ほんとすごくよくできていると思う。 そして一貫して「ボク」のような一人称が一度もでてこないでいる。我の部分はだいぶ弱いのかもしれない。
花火のイメージがノスタルジックな「骸骨の花嫁」、”からだからだからだ”とうた われる「KARADA」、音と色と光のイメージが鮮やかな「ブルーの回転」といった曲 を通して12曲目、「TENGOKU」という曲でこのアルバムは終えられていく。
この曲についても少しみていこう。
この曲は”天 国 に お ち る く せ に わ が ま ま ば っ か り/ば っ か り ば っ か り ば っ か り い う よ き み は/天 国 に お ち る く せ に わ が ま ま ば っ か り/ば っ か り ば っ か り ば っ か り い う よ ”といううたいだしではじまる。 この冒頭の、相手をもちあげつつもなじっていくような手つきがちょっとすさまじ い。そしてそれがやっかみとはぜんぜん違う温度でうたわれている。 そんなくだりから、”二 人 で 一 粒 の 瞳 に な っ て 一 粒 の 夕 日 を 見 つ め て み る よ”という、ちょっと危険な香りのするラ インがきて、でもすぐに”ほ ん と は そ れ ぞ れ ち が う 瞳 で ち が う 夕 日 や 世 界 を 見 る よ/ち が う 瞳 と 心 と 体 で ち が う オ 空 を み つ め て い る の ”と覆して しまう。 そして”天 国 も 天 使 も バ ラ バ ラ に な っ て !お 空 の オ 星 も バ ラ バ ラ に さ れ て !/心も !カラ ダ も 瞳 も ば ら ば ら に な っ て ”と続けられていく。 もうなんというか、この曲はカルトに片足つっこんだような状態で、下手したら携 帯小説すれすれの、でもだからこそかわいくて透き通った言葉をともなって、空を 見たという事柄からいろいろなものがばらばらに解体されていく。 そうやってなにもかもが無くなっていってしまいそうな地平で、”F U U U U U U W O O O W !”と表記される声が反芻されていき、そこではこのア ルバムでも1番の高揚感を携えているのだけれど、そうやってたっぷりの余韻を残し た状態で、アルバム全体としてみてもたくさんの情感をひきずりながらゆったりと 幕が引かれていく。
他者はもちろんボクだって、思っているよりずっと不確かな存在なのかもしれな い。余韻の中では言葉がどこまでもゆらいでいて、ただそのゆらぎの範囲内でしか息づけないものもあるようで、そこにこそ誰かの存在のようなものが潜んでいる のかもしれない。君が見え隠れする部分というのは大体においてそういうところにあるような気がする。
英語だとyouで片付いてしまう言葉がずっとゆらいでいる。このアルバムは日本 語ロックのひとつの到達点だったんじゃないかと今思っている。