善の永続性と悪の刹那性─善を構成するための原理の探求─
黒髪
善の概念は構成不可能である。故に善は存在しない。
例えば、生まれたばかりの赤ん坊を例に取れば、彼は何も自分ではできない。親の手がなければ存在さえできない。手間を取る。故に悪である。
この例のように、生命は多数の細胞の寄せ集まりであり、個体は地球システムの中の一部分である。つまり、完結性や完全性がない。そして他の生命を喰らうことによって命をつないでいる。生命同士の関係は、根本的に殺し合いである。
悪とは、例えば癌のようなものである。生命を脅かし、悪同士で連結増殖し、あっという間に大きくなる。
人間は殺し合いが得意であるのは、生命の原理が殺しという手段を視野に入れて構成されているからだ。平和ほど生命の苦手なものはない。
宇宙のなかに、自由なものはない。物理法則から自由な物質など存在しない。宇宙原理を変えることは、人間には不可能であるので、人間に変更可能なのは、人間原理のみである。人間原理は生命原理の上に立つ。生命原理の物質的側面は、殺し=悪であるが、情報処理的側面において、希望がある。文章の中で、それを構成する単語が全体の意味を超えて完結性を得ることが、詩においてはまま見られる。情報の中に善の萌芽が見られる。
神=完全な全体に達することができない故に悪であるしかない人間においても、悟りを開くことが可能である。
そこに、現実を超えた生命の永続性の萌芽が見られる。完全なる人間という善にむけた祈りのなかに、祈りの現実化がみられるのである。奇跡を信じること。それを言葉にして捉え情報として書き残すこと。
善とは永続の別名であり、悪とは刹那的なものの代表である。それゆえに善は存在が難しく、悪はいたるところに見られる。
だが、難易さによらない、現実化された場合の影響力は、それゆえに善>>悪である。一度誰かがつかまえれば、天国はこの世のものとなり、悪に縛られない新たな概念が構成されるのである。
故に祈りを現実とする活動を希望と呼ぶのだ。