川柳が好きだから俳句を読んでいる(7、津沢マサ子のこと)
黒川排除 (oldsoup)
男と女の俳句は違う。それは性差別的な意味でなく違う。性別というよりは生殖器別に違うのであろう、細かく言えば男が女のフリをすることも女が男のフリをすることも可能であり、またそれに対抗して俳句の世界は中高年と老人が多いからそういう小手先を使わずやはり生殖器的に違うということもできるが、このへんを突き詰めたいわけではないので先に結論から書いておくと、男の俳人は普通につまらないか普通に面白いかのどちらかで、女の俳人はひどくつまらないかひどく面白いかのどちらかだ。もちろん個人的な直感だし、どちらが劣っていて優っているかの話ではない、作品の振れと割合の問題だ。女は生殖器的に血と出産から枝葉を延ばした作品に独特の感性を持つ可能性があるというのが、あくまで個人的な、個人的な個人的な個人的な(ナイ〜ヴな問題ですからね)感想なのだけども、だからといって別に男がつまんないというわけでもなくて、それぞれの特徴があるなという話に持って行きたいわけで。
中空に骨は音たて紙の花
夏遠く椅子一脚をわが日とす
こういう、感覚やリズムで俳句を読む人間、すなわちおれにとって一番奇怪なのはそのカテゴリーに外れて、なんとも捉えがたい印象を残している俳人だ。津沢マサ子がその人である。すごく簡単に書くと男性的でも女性的でもない。もうすこし突っつくと整然としている割につかみどころがない。更に突き詰めると本当に素直であり何も見えない。おれという奴は本当に昔の記憶に左右されるので昔あったSaGa2というゲームボーイのRPGに登場した「まぶしすぎて何も見えない洞窟」から、真っ白であっても真っ黒であっても一緒だという教訓を頂いているのだが、まさに津沢マサ子の作品はそれである。過剰に素直であるためどこを触っていいのかてんで見当がつかないのだ。今上げた二句、この間には三十年ほどの月日が開いているのだけども、まったくそれを感じさせない。常に安定しているのか、それとも時間が止まっているのか。彼女は今現在、いつどこにいるのか?
夕焼けの下のどこにもない番地
もちろん作風の変化が全くないわけではない。当初、つまり一九七〇年前後には多く見られた一月から十二月までの表記的な存在や少女から老婆にいたるまでの成長における時間への執着は後年では少し消えて、代わりに昼夜を表裏的に捉え時間の概念をあえて物質に置き換えるような試みが表れてくる。しかしそうはいっても第一句集の名前は「楕円の晝」(晝は昼の旧字体)なのである。句集の題名が長い年月を経て作品へと浸透したのだろうか、それとも句集の題名が今後の予定になっていたのだろうか? 今まで書いた句をまとめたものが句集なのに?
失えるシーツの裏の昼銀河
結局津沢マサ子はまぶしすぎる昼なのだと言い切ることでしか先へ進めない。これより先の句集の題名に使われている「空」「風」「0」はいずれも無辺のものである。知覚上、無辺であるものに輪郭は存在しない。津沢マサ子は輪郭を失い、どこにいるか・どこにあるかも分からない。昼(hiru)という言葉に潜むいる(iru)という音を手がかりに目隠しもされないまま何も見えずに手探りでそこにある何かに触れるしかない。あるいは想像を超えて素直になれるようなことがあれば、本当に作品を読むことができるのかもしれない。
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