川柳が好きだから俳句を読んでいる(6、上甲平谷のこと)
黒川排除 (oldsoup)
輝きが強すぎて徐々に減衰する俳人(飯島晴子)と、老いるに従い独特の風味を持ち輝きを増す俳人(前原東作)のことを書いた。彼らが持っているものは欠点ではないが、全盛期に比べればそれほどでもないという落ち込みの時期における気力の後退を示すものである。ではそれらのいいところだけを取って組み合わせたらひょっとしてサイキョーなんじゃね? と思われるかもしれない、しかしそんなものがいるとしたらそれは化け物か、もしくは上甲平谷ぐらいのものだ。そう言い切ってしまっていいぐらいこの俳人は素晴らしい。まず名前が簡単な漢字で構成されている割に読みづらい。上甲平谷(じょうこうへいこく)と読む。当然変換されないし、わざわざ「上」「甲羅」「平」「谷」と別々にタイピングしなければならない、打ち込みにくくて読みにくいという煩雑さ。全句集検索などしてこの俳人のことを気に入ったのは、実は内容からではない。この簡潔な割に読めない名前、縦棒と横棒が異様に多い名前の漢字の構成、その不気味さにまずこころひかれたのだった。
月に籠る離屋の主や壺を並め
杉苗に雨がぽつりと夏隣
上甲平谷は伝統のひとだ。詳しいことは全句集末尾に記されている偉い人間の偉い批評文にまかせておくとして、見たとおり見たままに伝統的だとわかるぐらい伝統的だ、悪い言い方をすれば見た目が若干硬い。芭蕉研究を活かした古風な構成が緊張感として張り詰め、そこへ哲学研究でもたらされた末広がりの静謐をそっと乗せている。もちろんそうだと言い切れぬ点もある、後でも書くかもしれないが上甲平谷の俳句は量が多く、抜粋しても抜粋してもこれだと言い切れないところがある。上記の二句ですら適切であるかどうかは分からないが彼の描く静謐が現れているものを選んだつもりだ。根底には静謐があり、それが日常につま先立ちをして上澄みをまさぐっているのだ。この一連の俳人紹介で何回も書いてきた通りおれは老人になって落ち着き風味も失せ普通のとらえどころのある俳句を詠むようになったら終わりみたいな視点に立っている。ここで明らかにしたいのは、上甲平谷はこの時点でその先にいるということだ。つまり一時期若さによるほとばしりがあり、その後やや闊達と日常を振り回し、最後は死に寄り添いながら日常をただ書くようになってしまう俳人がいるとしよう、人間の一生の長さから言ってそこから先は普通ない、しかし上甲平谷は初手からその先にいるのだ。人生二百年ならば後半の百年を彼は既に生きている。そうであろうと予想される位置にどっしりと腰を下ろしている。正しく人を超えているという点では彼を超人と言っても良いのかもしれない。
火蛾は火の焦熱知らで闇來たる
秋うららの呼ぶ聲じつと觀入る
踊る宗教薄氷の溶けては流れ
この全句集、いや本の名前が「上甲平谷俳句集成」なのでそれに従い俳句集成と呼ぶが、それがセクションを三つにざっくり切っていることには大いに賛同したい、これがその中期の作品だ。上甲平谷のすごいところはどれだけ後になっても初期の作品の伝統っぽい硬さを失っていないところ、初心を忘れてないところだが、さすがに少なくはなってくる、その抜けた隙間へ徐々に増殖しだしたのがこの一種の幻覚めいた、ファンタジックな俳句である。静謐はやや後方に下がり、変わって躍動感のある光彩が姿を現す。主宰雑誌の名前が火焔であったことからも知れることだし彼も好んで火を俳句に取り入れてはいたが、火のないところにすら光彩が踊っているように感じる、火のないところに煙は立たないとしてもだ。衰えた肉体がもう一度筋肉をつけ、筋肉の力強さとその曲線の柔らかさをネオンで彩った色合いが俳句の全体を装飾していくのである。氷河期と間氷期が繰り返すのと同じく、俳句の作風も衰えからまた若返りの時期に来ていた。そしてそれは晩年に爆発する。
木々芽吹くレッツゴーヤングレッツゴーヤング
ゴーゴーパーチィ春晝かき散らして輕し
春の雹サリドマイド人黎明期
葡萄吸ふもののあはれを吸ふごとく
演歌しみじみの昔夏の宵なりけり
これがその最終形態、俳句集成における第三セクション、本書いわくところの「自在」の極みであるけども、おれは完全なる若返りを果たしたと表現したい。特に上記の五句中の最初の二句はなんだ、純粋になんだこいつはと感じる。誰だってそう思うだろう、何がレッツゴーヤングだよという感想しか持ち得ないのではないだろうか。初期のものとして提示した二句とも比べて欲しい、何が一体芭蕉だったのかと思えるほど、いい意味ですごいし、悪い意味でひどい。芭蕉に飛び蹴りでも食らわしてる感じである。この他にもダンディー、アイ・シャドウ、カップラーメンなどの横文字を自由に俳句に取り入れていることからいえば、飛び蹴りとせずにドロップキックと書いたほうがいいのかもしれない。一応偏らないように、五句の中には他のグロテスクなもの、すっとぼけているもの、牧歌的なものも選んで並べてはみたが、それすらも個体としての人間の想像をはるかに飛び越えている、飛び蹴りで飛び越えている。それらに対しては暴力という言葉すら生ぬるいように思える。このように晩年は古風な枠組みの中にそれらが壊れはしないものの明らかに悲鳴を上げるような勢いで近代の文章を詰め込むといった作風が顔を出したりもするのだ。それでまた、芭蕉的な初心を忘れぬ作品も作っている。恐るべき守備範囲ではないか。若返った二度目の老人としての上甲平谷はまさしく超人として君臨している。
巨人あり喝と?蝶吐いて去る
なお付け加えるならばこの俳句集成は定価でも四千円、古書店でならもっと安く手に入る。なのに本の中には約九千三百の句が入っている。おれは他のどんな本を失っても上甲平谷の俳句集成と八木三日女の全句集だけは残しておきたいと思うほどに好きだが、リーズナブルで庶民に近いという意味合いから言えば上甲平谷の方がまさっているだろう。そういった意味でも超人的である。
この文書は以下の文書グループに登録されています。
川柳が好きだから俳句を読んでいる