私の詩のヴィジュアルの破壊と再生の必要の痛感
もっぷ
皆さんもご存じだと思います、ある(大好きな)詩があります。
***
「鹿」 (原作のヴィジュアルまま
鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして
***
「鹿」 (わたしのいま、ならば
鹿は
森のはずれの夕陽のなかにじっと
立っていた
彼は
知っていた、
ちいさい額が狙われているのを
けれども彼にどうすることができただろう
、彼は
すんなり立って
村のほうを
みていた
生きる時間が黄金のようにひかる
彼のすみかである
大きい森の夜
を背景
に
して
***
村野四郎さんの有名な名詩です。
ざっとですがわたしならこう書くだろう、という描き方の一例を置いてみました。
するといかにあまりにつまらないのだろうという事実がみえたんです。
というのか、しばしきょうこの詩を前にしていてふと、そしてやっと気がついたんです。
具体的に手短かにうまくいうことができないのですが(ご覧の通りです)、わたしの詩のヴィジュアルを壊して再生しなくては、とかなり自分に痛く、誓っているところです。
(とても困難を伴う作業だと思います。
(だけれどやらないと。
(村野さんたち愛する先人から学びつつ、より自分に添っていてかつ適したものを。
***
村野さんが最初俳句から文学を志したということは知っています。