川柳が好きだから俳句を読んでいる(3、赤尾兜子のこと)
黒川排除 (oldsoup)
人間はふたつのタイプに分けられる、という表現は便利である。なんでもふたつに分けられるからだ。極論すれば有機物か無機物であり、女か男である。俳人という存在はふたつのタイプに分けられる、自殺するものとしないものだ。おれが全句集を持っている俳人のうちふたりは自殺している。そのうちのひとりがこの赤尾兜子だ。昭和58年というからたいそう昔の話だが、どうも新聞から引いたというインターネットの記事によれば煙草を買いに行く途中阪急電鉄に飛び込んで自殺したそうだ、自殺(笑)。自殺ははっきりいってクソの人間のやることである、それだけで人間の価値を下げるし、人間が人間としてあった関係も粉々にしてしまう、しかし一般的な自殺について論じようというわけではない、おれが言いたいのは作家としてのそれだ。作家として自殺をするとどうしても作品の前に自殺が付く。大抵の場合自殺をしたという情報が先に来る。有名であればなおさらだ。その結果生まれるものは「自殺をしたから」「自殺をしたけど」という枕詞である、これほどつまらないものはない。同じ理由でおれはじぶんの病気のことをいちいち俳句や短歌にしたためる作家が大嫌いだけども、それは基本的に作家と作品は別のものであって欲しいからなんだよ。ところが自殺の場合は否応なしに作品に絡みついてくる。無視することは到底できない。犯罪者の作品よりもだ。だから好きな作家が自殺をしていても好きだけど、小馬鹿にはする。なによりも自殺をしているというその理由があるために。
唖(おし)ボタン殖える石の家ぬくい犬の受胎
持っている全句集のパラフィン紙があまりにぼろぼろなので持ち出すのに手間取るから現代俳句データベースから引っ張ってきているが、ともあれこの暴力的な句であろう。別に戦争を体験したから作品に必ずしも深みが出るわけではなく、むしろその逆であることが多いのだけども、赤尾兜子の作品は戦争から帰ってきてしばらくの間、非常に冴え渡っている。まるで戦争から持ち帰ってきた誰かの遺品をそのままそこに晒し始めたかのようにキラキラしている、暴力紳士のスーパーノヴァだ。押ボタンと唖を音で絡め不穏な病態を漂わせながら、唖と石で韻を踏みリズムを整え、あまり頻出しない「ぬ」を後半ふたつも差し込むことにより病態を吐き気のする物体にしている。この論理の飛躍のうちに込められた無意識的なリズムと自嘲的な病態は彼を病原体のように位置づける。
広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み
煌々と渇き渚・渚をずりゆく艾(もぐさ)
また露骨なトートロジーも彼の味わいのひとつである。リズムを踏むとき、先程のように読者に軽く気取られることのないような位置に、作者ですらも無意識的に配置するのが常なのだが、彼ときたら、もう彼ったら、塩ときたら塩なのである。後の句はもっとすごい、ナギサ・ナギサ・モグサである。俳句がこれまで作り上げてきた優美なメロディー、花鳥風月の美しいうつりゆく季節その気高さの真横で平然と和太鼓を打ち鳴らすかのような強引なリズム。それゆえ、この単語は異様に目に焼き付くのだ。
ガソリンくさき屋上で眠る病身の鴎
ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥
こちらは病んだ鳥・死んだ鳥の句である。鳥と死ぬことに何らかの可能性を見出していたのかもしれない、いやこの二句だけで判断するのは早計かもしれない、全体としては動物に対して死を押し付けている印象がある、それは人間よりもという意味合いでだ。人間はむしろその死の立会人として出てくる場合が多い。そういえば先ほどのトートロジー的俳句は植物の動物的見立てであった。動物はえぐられ、植物や無機物は過度に動物化し、そのリンチの様子を人間は面白おかしく振る舞いながら(時には死んでいるが)立ち会っているという有様を、少なくとも中期の赤尾兜子は描くのがうまかった。
ロシアホテル燃えしあくる日春霞
そしてほかならぬ彼が死んでしまった。彼はじぶんで死んでしまった。彼は彼自身が見つめてきたであろう動物と化してしまったのだった。晩年の作品は、多くの晩年の俳人がそうであるように、本当にごく普通の俳句でありむしろつまらなさすら感じる。それでも、上記の通り、冴えた句を残しはしたのだが、全体の割合としては圧倒的に俳句的な俳句を作っているだけにすぎない。全句集の帯ですら、「晩年は伝統俳句への志向をも……」と認めている始末だ。我々に幸運なのは彼の中期の作品が膨大だということである。我々に不運なのは彼が自殺したということである。
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