純潔な眠り
HAL
きみは阿片を吸ったことはある?
もちろんないよね当たり前だよね
ぼく?
答える必要はある?
答えて欲しい眼だね
香港でね一度だけ
でも阿片窟に辿り着くまでは
大変だったしお金も遣った
最初はホテルのボーイに頼み込んだのがスタートだった
執拗なぼくの要求にボーイが持って来たメモをお金と交換に貰う
そこには行くべき場所の地図と時間とボーイの名前が書いてある
そこに行くと高級なスーツを着た男がお金と引き換えに
1枚のメモと次に行く場所と時間が書いてあり名前も書いてある
もう正確に覚えてはいないけど
多分ボーイを除いて8人位の男と逢った
まるでメモが襷である駅伝の様だなと想いながら
ぼくは香港の余り賑やかでない場所から場所へと
時計を見ながら遅刻しない様に早足で次の場所に向った
そしてスラム街に入ったら
そこに汚いランニング・シャツと薄汚れたズボンを
履いた男が現れてぼくの手を引いてすぐ側の小屋に引き入れた
お金は?とぼくが訊くと要らないと答え
空いている木の長椅子に横たわる様に言って
暫くすると火の点いた煙管を持って来て
ぼくにSlow Slow OK?と訊いてきたので
ぼくSlowly Slowly だろうと想いながらOKと返した
何故阿片をと訊かれると想ったよ
ジャン・コクトーの【阿片】を読み執りたかった
太宰が【斜陽】の登場人物のなかに書いた男が
自殺した遺書に記した
《生きる最後の手段として阿片を用いました》の意味と
実際に阿片を吸った開高氏の残されたことが
本当かどうかの3つが動機だった
もちろん朱の国では即刻死刑だし
政治的思惑が働いたとしても終身刑が精々
香港でも官憲に捕まると
残りの一生を香港の監獄で生き長らえるか
下手をすれば死刑の判決が下される
日本大使館も力は貸してくれない
でも好奇心が勝ってしまったんだ
啓徳空港からエア・フランス機が飛び立つまで
ぼくは怯えつづけなければならなかった
裁判に掛けられれば死刑になる逃亡犯の気持ちが
本当に良く分かったよ
幸いに中毒にはならなかった
純度の高い阿片は中毒にはならない
得たものは敬愛する作家が言った通りの
美しい無とも呼べるもう二度と味わえないと
断言できる短い眠りだった
でも生まれて初めて純潔な眠りがあるんだと実感した
それ以外に阿片が教えてくれたことは何もない
ほんとうにそれ以外には何もない