芸術における閉鎖性についての論考
小川 葉

 
 
北野武がカンヌやベネチア映画祭で評価される理由は、彼がフランス映画とイタリア映画をきちんとリスペクトした上で、オマージュしている作品を出品しているからだと聞いたことがある。
これは例えれば、日本の村祭りなどで行われている民謡大会に、とつぜん飛び入りで登場してきた西洋人が、見事に日本の民謡を、日本人のように歌いきった、という様子に似ている。これにはたしかに、村のみんなもプラボー!である。
対して松本人志は、その民謡大会会場で、自分が主観的におもしろいと思っているヘビーメタルを歌ってしまったというような様子に似ているような気がする。
松本人志の映画はおもしろいのだろう。しかし、その作品を出品する場所、および出品する文化圏の選択を間違えているように思う。
フランスやイタリアと言っても、そこは大きな田舎で、その田舎にいかに最適化させた作品を出品できるかということである。
日本の都市から見たら地方は田舎であるように、田舎から見た都市にもまた同様の、閉鎖された田舎的な特性がある。都市では当たり前のことが地方にはないように、地方では当たり前のことも都市にはないのである。
詩という芸術分野においても同じことが言えそうである。私がリスペクトしている、まどみちおや、石垣りんの作品をオマージュする形で、自らの詩世界をうまく表現できた時、主観的な表現で詩を書いた時よりも、評価されることが多いように感じる。
上手な詩人の作品からは、過去の優れた詩人の作品をリスペクトし、オマージュした形跡を、顕著に発見することができる。
 
 


散文(批評随筆小説等) 芸術における閉鎖性についての論考 Copyright 小川 葉 2013-02-20 21:40:46
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