待つひと 待つこと
HAL

「いってきます」とあなたが私に告げてから
もうどのくらいの水が橋の下を流れたのでしょう

おんなの直感でしょうか
もうあなたは私の元へは帰らないと
私はそう想ってあなたを見送りました

あなたがこの故郷を去る汽車に乗り込むとき
多くのひとが日の丸を振り万歳三唱を挙げる様を
私は余りに鋭い痛みを悟られないよう
涙を流さないよう同じことをしていました

でもあなたは帰ってきましたね
遺品と呼ばれる一度だけ
ふたりで撮った写真一枚だけになって

私とあなたを引き裂いたのは
或る日突然町長さんがお越しになって
「おめでとうございます」と言って
持ってこられたたった一枚の赤い紙でした

あなたも私もそれがくることを怖れていました
あなたは帰らぬひととなることを
私はあなたを待つひとになることを分かってましたから

でも私はまだ待ちつづけています
もう70年余りも経つのに
私はあなたを待ちつづけています

ただ いまはもう私からあなたに逢いにいくのを
いつからか待つようになりました

多くの方が親戚のひとが
あなたをもう諦めさせようと
あなたに代わるひとの縁(えにし)を持ってきました

でも私があなたを待つことを辞めたら
永遠にあなたがこの世界から忘れ去られる
いいえ消え去ったことを認めることになります

だれもが帰る場所を失ったとき
だれもが待つひとをなくしたとき
それはそのひとがもうこの世界に
存在していなかったことを意味します

私にとってあなたを待つことは
私の生きる欠けがえのない力でした
そして私は気がついたのです
いま待っているのは私ではなくあなただと

そんなあなたにいま私が逢いにいきます
だれかに寄り添うことはなくても
淋しくはない人生でした
充分に意味のある人生でした

そして私は瞼を閉じます
もう一度開けることはないことを知りながら
私は瞼を閉じます

そのときに私は待っているあなたがはっきりと
視えることに私は間違ってなかったと知るのです
そうです私はあなたをもう待つひとにはしません

もう瞼を開けなくてもあなたが私を
待っている姿が私には視えるのです
あなたは若いままで私はもうすっかり
おばあちゃんになってしまったけれど

私もあなたも待つひとになることが
だれがなんと言おうととても幸福だったとの
微笑みを浮かべて私とあなたはようやくに出逢い
待つひとではなくなるんです

いまの若いひとなら抱き合って
口づけを交わすのかもしれません
でも私もあなたもそんな恥ずかしいことは
できない時代に生まれました

あなたは決してヒーローではなく
私は決してヒロインではなく
ごくごく恋に落ちたものどうしとして
待つひとを辞め出逢うのです

決して時代や定めのせいにすることなく
私もあなたも待つひとになって生きてきました
でもお互いにそれは不幸ではなかったことを
私もあなたも身に沁みて知っています

待つひとのないことが待つことのないことが
どれだけの不幸であることも また…


自由詩 待つひと 待つこと Copyright HAL 2013-02-16 09:19:55
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