僕のマスターベーション6
花形新次
バスはC県からT川を超えI県へと進むローカル路線バスだった。
俺はI県側にあるテレビ工場に勤めていたので、毎朝一時間に一本しかないバスに乗って通っていた。
工場に勤める人をはじめ、多くの人は自家用車で通勤していたので、バスは朝の通勤通学時間帯にも関わらず、いつも閑散としていた。
客は俺一人のときもあれば、中学生ぐらいの女の子が一人一緒のときもあった。
女の子は、途中にあるN市養護学校前というバス停で降りた。
涼しげな目元が綺麗な女の子だったが、表情を変えることがなかった。運転手とのやりとりもいつも無言でいた。
バスから降りるといつも颯爽として足取り軽やかに目的の学校まで歩いていくのをバスの窓から見ていた。
その日は橋の上で事故があったのか大渋滞で、ホワイトアルバムなら2回聴ける時間がたったのにまだほんの30m動いたくらいだった。
バスの中には女の子と俺、運転手とすぐ脇の席に70ぐらいの農家の老婦が座っていた。
運転手はこの地方特有のぶっきら棒でぞんざいなものいいでしかもペラペラとよく喋った。老婦は聞いているのかいないのか、ただフンフンと頷くだけだった。
運転手も老婦に話している訳ではなかった。ただ、自分が話したいだけだった。
事故の処理が済んだのか、車の流れが急にスムースになった。
そのとき、女の子が降車を知らせるチャイムを鳴らした。
運転手は、あきらかに老婦との会話に(と言っても一方的に話しているだけだったが)気を取られていた。やっと動き出した車の流れにも意識は取られていたのだと思う。女の子の目的地のバス停を通り過ぎようとしていた。
俺は心配になって女の子に
「ここで降りるんだよね?」と聞いた
女の子は涼しげな表情をまったく変えることなく無言だった。
運転手は、まだ気づかずに時折自分の言葉に笑ってさえいた。
俺は腹が立った。人間の鈍感さに。
俺は運転手とも女の子とも同時に乗り合わせたことが何度かある。
女の子が養護学校に通っていて、上手く話せないことも知っている。
俺が知っているんだから、運転手だって知っていておかしくないはずだ。
そして運転手が乗客の安全を第一に考えるのならば、先ずはこの女の子の安全を考えなければならないのではないのか。
「この子、止まるってチャイム押したぞ!」
俺は切れ気味で声を荒げた。
「運転手は、乗客と喋るのが仕事じゃないだろう!」
運転手は慌ててバスを左に止めた。止めるべきバス停からはもう100mぐらい
行過ぎていた。女の子はバスが止まると、スクッと立ち上がって、定期券を見せて
降りようとした。その背に向かって運転手が
「行き過ぎてたら、ちゃんと言ってくれなきゃ」
大げさな話だが、日本人の職業倫理なんてものはクソみたいになってしまったんだなと
俺は思った。お前らみたいなのは皆くたばればいい。そう思った。そしてそんな人間ばかりになってしまったこの国はいつ滅んでもいいと思った。
俺は、バスを降りて、女の子の後を追った。
心配するほどのことではなかった。
女の子は無事に養護学校に着いて、こちらを振り向くことなく、校舎の中に消えて行った。
俺はバス停に戻り、今日は遅刻だなと言いながら、途中で買ったコーラの蓋を開けた。