詩と感傷について
まーつん
感傷を嫌う人々がいる。
感傷を蔑む人々がいる。
僕も時に、そんな彼らの1人に加わる。
感傷とは重力のようなものだ(また、お得意? の比喩から始めて恐縮ではありますが)。そこから跳躍して、創造の高みへと意識を運ぶことが、詩作において-あるいはどんな創造的活動においても-大切なのだと、そう主張する人々がいる。
まあ、水は低きに流れる、というか、日常の中で仕舞い込んでいた感情を解放できる、という効用が、創作には確かにあるわけで。部屋に閉じ込めていた飼い犬を散歩に連れ出して、野に放つように、自由に走り回らせてやりたいわけで。
そうしてワンワンと吠えて無邪気に空想の原っぱを駆け回っている感情に、バケツの水をぶっかけるような言葉を浴びせかける人たちもいるわけで。
努力不足だ、とかね。
それで充分なんですか、とかね。
そういう人たちに、言ってやりたくなることもあるわけですよ。
ここは練兵場じゃありませんよ、とね。
そんなに稚拙な作品が目に触れるのが不愉快なら、みんなの目に付くところに、自分たちの御立派な作品を額に入れて飾っておいたらどうですか、とかね。
馬鹿にすんな、とね。
感情で十分だと思うんですよ、僕は。
稚拙な技量であってもね。
技巧が鼻に附き、素朴さが胸を打つ。そんなことも、あるじゃないですか。
そのことをずっと考え続けて、こんな風な結論が頭に浮かんだわけですよ。
「芸術が、その創り手に努力を強いるのであれば、
それはもはや芸術とは呼べない。自由がないからだ」とね。
汗水たらして絵筆を握り、トランペットに息を吹き込み、原稿用紙にかがみこんで背中を痛めている人たちは、別に、「努力」してるわけじゃないんです。彼らを動かしているのは、将来いい思いをしたいから今辛いことを我慢する、ということではないんです。上手く言えませんが、「喜び」なんです。
そういう人たちに「もっといいやり方」を上から目線で苦言するのは、非常に下品なたとえで恐縮ですけれども、気持ちのいいセックスをしている恋人たちの寝室に踏み込んで、カーマ・スートラを片手に振り回し、「お前らこれを読んだのか。ここにはもっと優れた体位が載っているんだぞ。勉強しろ。努力が足りん」と言うようなものなんですね。
まあ、野暮というのか、余計なお世話なわけですよ。
ね、エラそうなもの言いでしょう、僕も。僕だって自分を偉いぞと思う気持ちはあるんですけれどもね。小さい人間なもんですから。でも、あからさまに誰かを見下したくはないわけですよ。そんなことをしてしまう愚かさと後悔を、身をもって経験したんで。それに、そうされる悔しさを、日々味わってもいるもんでね。
で、話を元に戻しますとですね。
「感情の薄い詩なんて、冷めた料理みたいなもんだ」
と、そういう人々に言ってやりたいわけなんですよ。どんなに腕のいいコックが作った料理でもね、冷めちまったら美味くないんですよ。体が温まらないわけですよ。デザートやサラダなら別にしてもね。
太陽に向かって吠えても、いいと思うんですよ。明日に向かって撃っても、それは勝手ですよね。それを安易だと笑いたくはないわけですよ。それを平凡だと、使い古された型紙だと、お前のオリジナルはどこにあるんだと、見下すのは嫌なんですよ。同じ創作者同士として、リスペクト、というか、そういう心掛けが、それこそ品性としてね、問われているというかね。
「創作者同士」なんて言い方が、馴れ合いだという人もいるかもしれませんがね。僕だって、全ての創作者に親しみを感じてるわけじゃないですよ。もう、ぶん殴ってやりたいほどむかつく奴もいますし。もう、足を引っ張りたくなるほどうらやましい奴もいますし。
もう、セクハラしたくなるほどかわいい奴もいますし(←これは違うか)。
でもね、好むと好まざるとにかかわらず、僕らは同じ世界に生まれてきてしまったんです。狭い言い方をすると、同じフォーラムに集まってきてしまったんです。
芸術とは、自由という概念が、形となって表れた姿だと、僕は思ってるんです。ね、かっこいいでしょ、気が利いてるでしょ、この言い回し。そういうのを嫌う人たちもいますけれども(←なんだか粘着になってきた)。
まあ、この碌でもない、しみったれた現実世界に生きていく上で、本当に心から自由にふるまえる人なんていやしない、と思っているわけです。重力に繋ぎ止められて、汚れた空気を吸わされて、飯を食わなきゃ腹が減り、老いには勝てなくて、容姿を買い叩かれて、親は選べなくて、国に税金搾り取られて、裸で外は歩けなくて、病は気からやってきて、一人になるのが怖くて、と、
もう、イヤンなるほどの制約や不公平があるわけですよ。
だからこそ、芸術が生まれたわけでね。そこは、どんな魂も自由にふるまえる空間だと思うんですよ。
でもね。
空がいかに広々していても、飛行機が多過ぎたら、ぶつかっちゃうようにね。
やっぱり、自分の理想を、他人に、うっかりぶつけない、押し付けない気遣いがあってもいいと思うんですよね。
相手の自由を尊重しなかったら、自分の自由もないがしろにされちゃいますよ。そして自由であるためには、不安に捕らわれていてはダメなんです。だから相手が不安に駆られるような痛みを、安易に加えてはいけない、と思うわけです。如何にその痛みが妥当なものだと思われてもね。
まあ、「お前も人のこと言えないんじゃないの」という声が、草葉の陰から聞こえて来そうですが。それはもう、ホントにそうなんですけれども。いやもうほんとに、ゴメンナサイ。分かる人には、分かると思いますが。
まあとにかく、僕がこの場で批判した人々のことも、その作品は尊敬してます。「努力不足ジャン」「感情だけじゃ、ゼンゼン充分じゃねーよ」と、いうような発言をした、ある人の作品も、日ごろから凄いなと思って読んでいたわけで。というか、自分的には、このフォーラムで出会った詩人達の中では、トップレベルにいる一人だと密かに感じていたわけで。自分が目指している方向性とは違うところへ向かっている人だけれども、見事にその世界を極めつつあるなと。
それだけに、ちょっと「お前ら未熟もんだぜ、ハン」的な言葉に、強い反発を覚えてしまったわけで。言ってみれば、プロの野球選手が草野球をけなすような感じ?
うーむ、当たっているような、ズレているような?
まあとにかく、どんな名選手も、野っばらで鼻垂らして草野球をしていた時代があったと思うんですよね。そのころからずば抜けていた人もいるとは思うけれども。
同じ場所で駆け回っていた仲間がいたってこと、今もいるんだってこと、忘れてほしくはないわけで。
その想いを、大切にしてほしいわけで。