野良犬の日々
済谷川蛍
なんばパークにて。
ネットカフェの利用料金が安くなるのは二十三時からだったが、まだ十八時だった。行くあてがなく、コンビニをハシゴしてはお菓子を買って食べた。何もすることがなく、自分だけ時間が止まっているようだ。青い空を見上げ、ため息混じりの深呼吸。この街は哀れすぎて疲れる。あと五時間、仕事が入ってない日雇い派遣の僕は何も出来ることがない。
濃紺の空、雑踏、雑音。街路樹を囲む円形のベンチに若干無理のある姿勢で横たわっている僕がいる。時間が氷のようにゆっくりと溶けていく。人々は僕を不思議な目でみる。過去も未来も現在も想像がつかない人間を見る。視界から消えるまでの間、人々は僕を見る。眺めはしない。一瞬映った僕の姿に視線が引っ張られる。僕の過去、未来、現在、特に現在の僕が気になる。この若者はホームレスなのだろうか? 僕は何もしていない。人々は通りすぎる。先に進む。僕を置いて。一人も振り返ることはない。ふと思う。街路樹は、寂しさを感じることがあるんだろうか。
僕の身体は不潔だった。着ているものは汗でびしょ濡れになり、乾けばマシになるが、街を歩くにも、電車の移動にも自分の体臭が気になった。特に足元から悪臭が漂う。ネカフェの個室に入るとその臭いしかしなくなる。どういうわけか、シャワーを毎日浴びれなかった。どういうわけか、無一文になることが多かった。
僕が門を叩いた派遣会社は時給千円だった。しかし意味不明な名目で五百円天引きされる仕組みだった。五時間働いたとすると時給九百円の計算になる。現場へは電車を使うが、その費用は自分で出す。給与のときにその分は返還される。仕事の内容は大体が設営関係の雑用。イベント用のステージや夏祭りの櫓はいくつものパイプが組まれて出来ているが、それを設計図通り組むのが専門業者の仕事で、その業者の手間を省くのが日雇い派遣の役目である。働きアリの如く、細長くしたバーベルのようなパイプを運び続ける。
日雇いと日払いは言葉は似てるが一緒ではない。給与の受け取りは携帯などで予約のメールを送り、翌日の十六時から二十時に受け取る仕組みだった。土日に受け取ることは出来ず、繰り越しで月曜になる。この仕組みのせいで僕は財布が空っぽになることが多く、ネカフェの代金が足りない時は野宿をした。帰るとこがなかった。二十三時から六時までの間はナイトパックで五時間九百八十円だった。ただしシャワーつきは千六百八十円。何にしても睡眠時間は5時間未満だ。給与は、四日か三日働くごとにもらっていた。一日ごとにもらわなかったのはサインなどの手間がめんどくさく、事務員と話すのがめんどくさかったからだ。一度に受け取る給与は三万円ほどだった。僕は日雇い派遣の仕事を始めた頃、普通に居酒屋で飲み食いしたり、スパワールドに泊まってマッサージしたりして親に五万円借金していた。だから三万円から一万円を差し引き、送金する。使うのは簡単だが、稼ぐのはしんどい。1万円返しても二万円ほど手元に残るのに、なぜ野宿するはめになるのか、わからない。計画性がないからだろうか。とにかく僕は三度野宿した。歯みがきも洗顔も出来ない。洗濯も、体を洗うことも。
タイル張りの寝床は不思議な感じがした。ある日の早朝、ビルの警備員に起こされた。ビルの前で寝てはいけないらしい。真夏なのに朝はひどく寒くて、リュックからTシャツを取り出して重ね着した。起こされてもどこにもいくところがない。しかたなくビルの前の小さな階段に座る。金がまったくなかった。派遣会社の事務所が開くまでしばらく待って事務所に着いたら担当の仕事まで一時間ほど待つ。時間になったら、仕事内容や責任者、現場が書かれた紙と、詳細な電車の乗り換え表のコピー用紙を受け取る。作業着のまま電車で移動する。まるで住所不定の浮浪者のようで、こんなんなっちまったかぁとミジメになる。
現場で他の派遣員と合流する。仕事が始まるまで大体一時間ほどある。事務所と現場で二時間ほど無駄に拘束される。たまに仕事が三時間だけってときもある。そのときは5時間+移動時間で収入が二千五百円ってことになる。時給500円以下だ。いつも仕事があるわけではないので、やらないよりはマシなのだ。
辛い仕事は肉体労働だけではなかった。看板持ちも相当辛い仕事だ。「三時間何もするな。一時間につき九百円やるから」と言われて言うことを聞く人間がいるだろうか。しかたないからやるのだ。同じようなので自動車工場の夜勤も酷かった。大手自動車工場の悲惨な光景を見た。深夜に工場全体に鳴り響くラジオ体操に眩暈がした。工員たちが夜中にかく汗の臭いは潰れたカエルのようで気分が悪くなった。そして彼らをただ立って監視し続けるだけの仕事だ。
仕事がない時間、僕はどこで何をしていいのかわからなかった。しかたないのでコンビニを梯子してお菓子などを買う。万札が千円札になる。千円札になったら次々と減ってゆき、気が付けば残り二枚くらいになっている。二千円だけ持って街をほっつき歩く。生活用品一式が詰め込まれたリュックが両肩に食い込む。まだ昼間。難波ウォークに座れる場所がある。そこからスイスホテルの方角に空を見ると心の休まる風景であることに気づいた。身体を横にして眠ろうとすると警備員に注意された。僕はすみませんと笑ってその場を離れた。
あと一週間働けば残り三万円ほど親に金を返せていた。しかし九月になってから仕事が減っていたし、僕は心身ともに疲れ果てていた。気性が荒いトビやドカタ、大工や同じ派遣の若者と仕事するのも嫌だった。だからやめた。実家で飼っているネコに会いたかったし、家で休みたかったので帰ることにした。僕は和歌山県の高野山大学の学生で夏休み中だったのだ。実家は山口県。新幹線代は親からもらわずに自分で出した。それだけでも僕にとっては誇れることだった。しかし、結局働き始めてつくった借金は二万円ほど残ってしまった。靴はボロボロになったし、リュックもジッパーが閉まらなくなった。
一体、僕の労働はなんだったんだろうか。
しばらくは白い軽トラを見るたびに気分が悪くなった。日雇い派遣は信じられないくらい辛い。今でもあれは何かの間違いだったのではないかと思い、いつまでも日雇い派遣でしか働けない人たちのことを僕の頭の中で想像することが出来ない。