風物考 恵方巻
salco
松の内を過ぎると、これを広告するポスター、ポップがコンビニの定番になった。
チョコレート一色までの中継ぎといった位置づけか、成人の日も過ぎればランチ時、オフィス街の店舗では言われないのに自宅近
くではレジで間々言われる、「こちらの予約、いかがですか?」。そのつど気弱な笑顔を努めて答える、「いえ…」。
スーパーの惣菜売場でも予約を承る、持ち帰り鮨チェーンの店頭でも販売する、宅配鮨チェーンの折込みチラシも謳い、当日は回
転鮨でも回るであろう、ふつうの鮨屋はまだ乗っかって来ない、恵方巻だ。
テレビCMまで打つ流通大手の主導で地方文化が普及するのは一向に構わない。
なるほど真冬に窓を開け放ち、室内外に乾物と騒音を撒き散らす「鬼は外」式は現代の風潮に合わないし、住宅事情を鑑みる家庭
も多いに違いない。静寂やよし、後片づけ不要もよし、節分に吉方を向いてぶっとい海苔巻を手づかみ一気食いする。なんつーはし
たない所作が本当に伝統なのか? という疑問がひとつ。
伊達巻か玉子焼きに穴子やかんぴょう、桜でんぶの美しい彩り。この祝祭感あふれる太巻は私も幼少時から好む方だが、あれを切
り分けもせず大口でくわえる不躾が風物詩としてどうなのかといえば、美意識の危機、行儀作法観念の崩壊をしか覚えない。こんな
振舞いを大のおとなが毎年率先し、将来全国で定着するとして、そのいぎたないウワバミ食いが招福祈願の象徴たり得るのか。とい
うアンチテーゼばかりが頭の中でこだまする。
「恵方神」「恵方棚」「恵方参り」と違い、去年とうとう背表紙が剥がれちゃった広辞苑には載ってない、古くは見世物小屋のヘ
ビ女が細首に巻きつけた長もの、昨今は女子アナや女子高コスプレ・アイドルの面々にバナナを持たせ、且つ食わせて喜悦するよう
な趣向。そーゆー趣向性に応えるポーズを主題とする風習が、「ハレとケ」の分別回収、「建前と本音」の念力透視、「お歳暮と無
理心中」の呪縛強迫に長けて来たこの国たみの、いったいぜんたい伝統たり得たのか。
即ち週末の寝室でママとパパが催す有酸素運動のウォームアップ。その大いなる暗喩をあからさまな居間で、子どもに性教育とし
てでなく歳時記として伝承することの是非を何故、ピーチーエーも文科省も問題にして来なかったのか。この不思議をもついでに訝
らずにはいられないのである。
サイレント時代の子役、長じて前衛映画監督のケネTH・アンガーという人が著した好事本『ハリウッド・バビロン』によれば、
陰で「小児科医」とあだ名されていたチャーリー・チャプリンは、同衾を拒んだ女優の卵に吹奏を提案したと認知裁判で暴露され、
大衆の心象を更に悪くしたとか。1940年代のアメリカとはいえ、清教徒の国のダブルスタンダードと日本のハレ・ケはさして変
わるまい。まして子どもにとって性行為はステイトオブショックに他ならない。
両親の夫婦愛、その躯体の定礎がハレやかな友情と信頼だけでは全くなかったという事実は、思春期前期の子には遠ざけたい不気
味な謎であり、後期の者には親蔑視の浅からぬ根拠のひとつになる。その嬉戯がどんなにキョーレツな快感を提供するかを自ら知る
に至ってさえ、恩着せがましい説教&人生訓の俗物ぶりがクローズアップされればされるほど、別腹で消し難い思いにもなろうとい
うものだ。
『自分は下司に欺かれるがままの木偶だった…』
老蒙に乗じたオレオレも、頑是なさに乗じてのコラコラも、言うまでもなく呵責に苛まれるのは被害者の皆さんである。
教訓の多くが日常の静穏を破る突発事件で生じるように、教育はいつも日常の静穏な些事にある。親とは軽蔑されてナンボの反面
教師であれ、少年少女期の心情を慮るならば、その初期ショック症状を最小限に留めるべく、普段から寧ろ子の前でこそ多少の暗示
を含んでイチャイチャすべきだと私は考える。お前の両親は等分にスケベなのだと知らしめ、なかんずく大人は脳幹と下腹の連絡が
大脳域で増幅されているのだと教え諭して、人間の根源的な二律背反をエクスキューズしとかないといけない。
話が教育勅語に逸れた。主題は「夫婦相和シ」ノスゝメなんぞではない、恵方巻だ。
あるいは食品小売ギョーカイの意図がプンプンするこの「行事」は、もしかしたら田園地帯の神社あたりが起源なのかもしれない
が、こんな作法の間食を一心にむさぼっている最中に、それどころかラスプーチンとか馬並みを打ち揃ってほおばっている最中に、
大地震が来たり天井から金盥が落ちたりしたら…。さっきの兄弟げんかを根に持つ孫次郎(小2)に飛び蹴りされたら…。という危
惧がひとつ。
何故ならヒト科が『ハッ!』と驚いた時、起こるのは慣用句「息をのむ」や「鼻から牛乳」でもわかる通り、吸息だ。少量の空気
を吸って息を止める。とっさに酸素を取り込もうとする、これは反射でどうしようもない。
これと逆の嘔吐反射は、内因性でない場合、外力で「詰め込まれた」受動態勢に於いて食物などがディープTHロートを刺激して
起きるが、自ら好き好んで意識的に流入量を調節しつつ咀嚼している場合には、ほぼ起きないと言ってよかろう。咀嚼・嚥下は乳児
期から学習を重ねている。
上島竜平氏がとっさにおでんを吐き出すのは口中に置けぬほど熱いからであり、出川哲郎氏がとっさに激辛シュークリームを滂沱
で飲み下すのはプロ意識だろう。けれど熱くも辛くもない代わり、吐き出す理由もない食物をいっぱいに詰め込んだ口腔と反射との
遭遇は、危険極まりない。この「藪から棒」吸引事案がとっさの判断力に欠ける幼児や、嚥下力の弱い老人の気管に起きたら…。
咽る。この反射は食道の嘔吐力に比べて何と非力なことか。多分、空気が固形物でなく肺が消化器でないことに起因している。羊
水を吐かされて以来は誰も彼もが不可視のものしか呼吸できなくなってしまったのだった。
無論、救命処置を学んでいればその場で吐き出させることができるだろうし、我が子か連れ子また里子、老いぼれた実親や舅姑が
心底うとましくなって来た人には暮らしのリセットチャンスを与えてくれはする…。
と、こうして想定される危機管理エピソードまでもが、まるで「サスペンス劇場」のように痛ましい。トレンチコートやキャペリ
ンハットの犯人が断崖や海岸で必ずや船越栄一郎氏とか名取裕子氏に自供する、このパターンはドラマツルギーとしても浅ましい。
結果、この流通業界のプレ・バレンタイン大作戦に引っかかってなるものか、という醒めた意固地にならざるを得ない恵方巻だ。