これから私は慣れないことをする。
感想文を書くのだ。
詩で、しかも中也の詩で。
中原中也の詩に「月夜の浜辺」という詩がある。教科書に載っているくらい有名な詩なので、馬鹿な私でも知っている。裏を返せば、私は教科書に載っている詩くらいしか知らない。毎日大量の文字情報が、紙媒体やネット媒体を通して、私の目の前に現れては、覚える前に消えてしまう。それなりにがんばって読んではきたが、はっきりと思い出せる作品となればその数は非常に限られている。
そのうちの一つが「月夜の浜辺」だった。今でも覚えていられるのは、教科書に載るほどすぐれた詩である由縁なのか、それとも授業で繰り返し読まれたから頭に残っているだけなのかはわからないが、とにかく本題に入ろう。
まず結論から言ってしまえば、この詩はエロい。とてつもなくエロティックな雰囲気に満ちている。直接的にエロいものはこの詩には一切登場しないし、陰部もセックスも描写されていない。
それでも、この詩を読むととてつもないエロさに包まれる。それはなぜなのか。その要因の一つとして、言葉の持つ暗示性が挙げられるだろう。例えば詩の冒頭の「月夜の晩に」というフレーズにしても、「月」「夜」「晩」という3つの言葉で夜が強調されている。夜という象徴が含み持つのは、「男女の営み」のエロさだ。そのことを考えようとするとき、まず頭に浮かぶのが、萩原朔太郎の「猫」である。短いので全文引用する。
猫
まつくろけの猫が二疋
なやましいよるの家根のうへで
ぴんとたてた尻尾のさきから
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です
(萩原朔太郎『詩集〈月に吠える〉全篇』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/859_21656.html )
専門家の解説や読解を聞いたことがないけれど、私はこの詩にもエロさを感じる。(詩じゃなくてお前がエロいんじゃないかと言われれば苦笑いするしかないが…。)
具体的に見ていくと、「ぴんと立てた尻尾のさき」が男性器を、「糸のやうなみかづき」が女性器をそれぞれ象徴している。「二疋」が一対の男女を暗示し、そして詩全体を支配するのは、「なやましい夜」という状況。この流れの中にあっては、「ここの家の主人は病気です」というフレーズすら、単なる風邪、発熱の類ではないことを思わせる。
また中心的に登場する猫は語源が「寝子」であると言われているほどに、眠ることと深くかかわりのある動物である。その猫の鳴き声もまた、男女の営みの結果として生まれ出てくる赤子のような声をしている。そうなると、この二疋の猫もまた、象徴的にいずれ生まれ出る双子の子ども、あるいはやがて合一してひとつの受精卵となる精子と卵子として語られているような気さえしてくる。
さらに、市井の猫は夜な夜な周囲に響き渡る声を上げながら交尾するという、私の個人的ステレオタイプも相まって、「猫」は紛うこと無きエロさを持った詩であるように思えてしまうのである。
「猫」は「男女の営みの真っ最中の家の屋根の上の猫の会話」という官能性だったが、一方の「月夜の浜辺」は後の祭り的な事後の孤独を思わせる。この「月夜の浜辺」での主なできごとはといえば、「ボタンを拾って袂に入れる」というだけである。
この落ちているボタンに対して、みなさんはどのような想像を働かせるだろうか。私は野外での男女の営みを連想した。お前は真顔で何を言っているんだという話だが、人気のない夜の浜辺でボタンが落ちる要因として、他にどのような状況が考えられよう。男が女の服を脱がすときに、焦ってすこし荒々しくなってしまい、外れて落ちたボタン。そういうドラマが詩の背景にあるように思う。
この詩には、ボタンへの不思議な愛着は語られても、ボタンの形状・色・素材に関しては一切語られていない。もちろんそのボタンが落ちた経緯についてもだ。そのため、読者はボタンに関して、好きに想像してもいいのではないだろう。例えば、男二人で取っ組み合いの殴り合いをした結果、胸倉を掴んだときにボタンが外れたのだという想像も、別に否定するつもりはない。
しかし、そのボタンが捨てられないということの理由を考えたときに、私はボタンの落ちた原因として「男女の営み」説を推したい。別に「夜の営み」の持つ官能性ということだけを強調するなら、男同士でもいいし、女同士でもいいはずなのだが、その営みの後に「放られ、捨て置かれたボタン」という存在のことを考えたときに、これはやはり「男女の営み」なのではないかと思うのである。
ボタンが外れ落ちてしまうような、情熱的な男女の営みのあと、ぽつんと孤独に落とされていたボタン。そのボタンの孤独は、詩の話者である主人公の抱え持つ孤独と共鳴しあっている。この詩の話者はまた、ボタンを指で触れながら、自分もまた男女の営みの末に、この世に抛り捨てられたひとつのボタンに過ぎないのだということを痛感したのではないだろうか。海という言葉が母親を象徴しているならば、その波打ち際に落ちていたボタンというのは、やはり赤子であり、自分自身である。その境遇を捨て切れず、けれど何かに役立てられるわけでも無く、捨てられるようにこの世に生まれ落ちてなお、命を袂に入れるようにして生きているという姿勢。そのことを「ボタンを拾った私」という主体を通して語っているのだ。
「『月夜の浜辺』は青姦の詩である」というと、「ハァ?」と中也ファンの皆様に睨まれてしまいそうであるが、「『月夜の浜辺』は眠れない夜に浜辺を散歩する孤独な人間が青姦後のボタンを拾う詩である」と言えば少しは納得していただけるかもしれない(いや無理かもしれないな…)。
改めてこの詩から連想することを、文章として書き出してみるとこの詩の底流にある言いようの無い孤独を感じることとなった。冒頭で覚えている理由がわからないと書いたけれど、この詩に息づく孤独が、私の心に潜む孤独と共鳴しあい頭に焼き付いて残ったのかもしれない。(当時は青姦=エロい、という発想しかなかったのだけれど…)
この詩が入った詩集『在りし日の歌』に「亡き児文也の霊に捧ぐ」と書かれているように、中也はこの詩を書いた頃に子どもを亡くしている。そのことを考えるならば、(詩の文章以外から内容を読み取ることは好きではないのだが)このボタンは幼くして亡くなった子どものことを象徴しているのかもしれない。
月夜の浜辺
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれは抛(はふ)れず
浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁(し)み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
(中原中也『在りし日の歌』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000026/files/219_33152.html )