珊瑚の小径2(エッセイ)
そらの珊瑚
【合唱コンクール】
中一の娘が学校の合唱コンクールで、伴奏を引き受けてきた、と驚愕なことをいう。
娘がピアノを習っていたのは小学校三年までで、どこをどうやったら、そういうことになるのか。
ピアノ伴奏ってピアノが出来る子がやるもんじゃないの? と聞くと、どうやら誰も引き受け手がいなくて何を血迷ったのか立候補してしまったらしい。
う〜目に浮かぶ。「誰かいませんかあ」しーん。下をむいて、ひたすら、誰かが手をあげてくれるのを待つ、あの時間が。大人だって、あるよ。学校のPTA役員を決めるとき。「どなたかやってくださいませんかあ?」しーん。あの空気に耐えられない人が、手をあげてしまうんだなあ。(実は身に覚えがあってりして)
それにしたって……。いいたきゃないが、先生! 娘は楽譜が読めないんです。それから一ヶ月、親子二人三脚のピアノレッスンが始まった。
楽譜は読めないんだけど、耳はいい。バイエルしかやってないのに、ショパンの「幻想即興曲」の冒頭を教えたら、弾けるようになってしまった。
(こんなふうに書くと私がすごくピアノが弾ける人だと勘違いなさる方がいらっしゃるかもしれないですが、私も冒頭派ですから)
一度覚えてしまうと、暗譜しているので、楽譜なしである。いや、もともと楽譜はいらない? 私がまず弾いてみて、それをさらうという気の遠くなるようなやり方が続く。子育てというものはこんな気の遠くなることの連続であり、めんどくさいことの連続であることよのう。などと清少納言がいいそう、などと時々妄想遊びに逃げながら、星一徹と化す。いとをかし。
なんとか全曲弾けるようになったのは、本番前の一週間前のリハーサルの前日であった。母はのみの心臓であるのに、おまえの心臓には毛が生えているんだね。ある意味、うらやましかったりして。
リハーサルどうだった? と尋ねると「一オクターブ高く弾き始めちゃって、先生にストップかけられた」と言う。ああ、そうか、学校のはグランドピアノだった! どこが基本のドなのかそりゃあわかんなくなるよねえ。かつて私はピアノの先生に、真ん中のドはピアノの鍵穴のところにあるドだと習った。しかし、今家にあるピアノは電子ピアノで、その鍵穴が存在しないし、娘は真ん中のドを意識すらしてなかったのではないかと思う。
「でも、リハーサルで良かったじゃん。でもね、間違えたっていいんだよ。ちょっとくらい間違えたってわかりゃしないんだから。やっちゃいけないのは、止まることだよ。伴奏が止まったらいけない。でたらめでもいいから最後まで弾くこと」と慰めておいたのだが、後日違う方面から耳にした情報によれば、ある男子の言葉に(おい○○、ちゃんとやれよ、おまえのせいで……とかなんとか)泣いたそうである。そりゃ、そうでしょうよ。コンクールであるのに、もうちょっと真剣にやれよ、そう思うのは至極真っ当なご意見だと思う。救いは、女の子たちが「○○さんだって頑張っているんだよ」と庇ってくれたということ。
なんとも、ありがたや、である。足むけて寝られませんわ。
◇
当日、どうか最後まで弾かせてやってください、と祈るような気持ちで、ビデオをまわす。ん? だんだんテンポが速くなってきている。おちつけ〜おまえの心臓には毛が生えているんじゃないのか! 飛雄馬よ。(いや、女ですけど)どきどき。なんだかとってもいや〜な気持ちになる。経験上、いや〜な予感というものは十中八九当たってしまうものであると知っている。
それでもなんとか二番まで行き、最後のダ・カーポまでたどりついた、その時だった。突然ピアノの音がぷっつりと止んでしまったのである。
ど、どどどどーした。おまえの心臓には……もういいか。
ざわざわ。いや、実際にはしーんとしているのだが、観客の空気が『伴奏、どうしちゃったの?』と言っているのが手にとるようにわかる。舞台上のクラスメイトもあきらかに動揺している。
この間の「伴奏が止まったらいけない」が図らずも呪いの言葉になってしまうとは!
ごめんなさい、すみません。許してください。思いつく限りのありとあらゆる、詫びの言葉を叫びつつける母(もちろん心のなかですが)こ、ここで終わるのか! と思いきや、おそるおそる、といったかんじで歌がはじまった。がんばれ! ここはアカペラバージョンでいこうよ! うまくすれば、ごまかせるかもしれない。ポジティブシンキング! って、そんなわけないか。しかし、やっと我をとりもどした娘は伴奏を再開し、なんとかエンディングまでいけた。
帰宅した娘にビデオを見せたら「いたたまれない」と一言。そりゃーそうでしょうとも。でもね、母さんはおまえの数百倍いたたまれなかったことであるよ!
いたたまれないこんな経験は、きっといつか彼女の財産となるだろう。ありがとうございました。