「のっぺらぼう」
元親 ミッド

新宮、古賀を抜けて、福津に入ろうかというとき

僕は、唐突に、「のっぺらぼう」に出くわした。

それはいきなり現れて、国道沿いに突っ立っていた。

真っ白い顔をこちらに向けて、あるはずの無い目が、じっとこちらを見つめていた。

そうして、ひらかぬ口の口角が少々つりあがり、にやりと確かに笑った。

「のっぺらぼう」は3体もいた。寄り添うように3体もいた。

嫌がおうにも目が引き寄せられる。

どうしてだ。なぜだ。見る価値などあろうはずもないのに。



その「のっぺらぼう」に遭遇するまでは、いつもの「退屈な日常」が続いていた。



その日は、現場へと軽トラックで向かっていた。

国道3号線にのって、東へ東へ。

福岡の街は、地方都市ながらも立体的な街で、

道は上に下にと複雑に交差して絡み合い、

新しいビル、古いビルの森をかきわけて、

張りつく地下茎のようにこの街を侵食していた。

ビルの森に林立するそれらの構造物は、色も形も個性的であり、

いかに人の目を引くかに終始し、常に何かしらの主義主張をし続けていた。

しかし、一々そういった主張を受け止めていてはきりがないこともあって、

そこで暮らす我々は、いつの間にやらそういう「押しつけられるもの」を、

意識せずに、いなしたりかわしたりするすべを自然と身に着けていた。

光り輝く派手な看板群が放つ、まばゆい光線のシャワーの中ですら、

それにかすりもせずに歩くことができた。



それは、ごく自然なことだった。



福岡市内をぬけ、郊外に出る頃には、迫りくる雑多な構造物の囲いから逃れ

少しづつ、風通しのいい風景になって、ちょっとした解放感に、ほっとしたりする。

それでも国道の脇には、電柱並木がしつこく続き、どこまでもどこまでも

監視しているような、そんな脅迫的な威圧感を放っていた。

それでもやはり我々は、そういった圧力すら感じないくらいに、

見事に己に向けられて放たれた主張を、意識の外へと除外していた。



そうやって我々は迫ってくるありとあらゆる圧力を、意識せずにかわし続け

結果、「何も感じていない」ようなつもりになっていた。



私も例外ではなく、流れていく景色の中に、そういった圧力があったとしても

何も感じることなく、したがって意識もせず、そういった景色を

ただの「退屈な日常」だなぁとしか思わなかった。

そうして、しかめっつらの冬の空の下を、現場へと急ぐのであった。



そうしてついに遭遇した「のっぺらぼう」。

3体の「のっぺらぼう」は、1体は座っているように横長で

1体は、背伸びをするように高くそびえ立っていて、

もう1体は、阿修羅のように3面だった。

彼らは、本来ならば、広告としてそこにあるはずの「看板」だった。

この不景気が生んだ妖怪だ。

サンドイッチマンだと言えば親しみも湧くだろうか。

しかしながら、のっぺらぼうとなった今の彼らには、可愛げがない。

まるで、今見ている視界の一部を、暴力的に、

強引に切り取られ、奪われてしまったようなそんな感覚がある。

ただの白い看板が、どうしてそこまで存在感があるんだ。

やつらは、一体何モンだ。

・・・・・いや、まぁ看板なんだけど。



考えたんだ。「のっぺらぼう」にどうしてそれほどの力があるのかを。

そうして、ある一つの仮説に辿り着いた。

もしかすると、「のっぺらぼう」が存在感を押しつけているのではなく

ありとあらゆる存在感を自然と無視し続けていた僕の方が

急に、主張してこないものに遭遇してしまったことで

「かたすかし」をくらってしまったのではないか、と。

つまり、主張されることを無視することに慣れすぎていて

ぽっかりと空いた空白に、逆に違和感を憶えたのではないか、と。



そんなことを考えながら、すれ違いざまに「のっぺらぼう」を見て

すれ違ってからも、ミラーで遠のいていく「のっぺらぼう」を見ていた。

「のっぺらぼう」の妖力に、しっかり引き寄せられていた感があった。

帰りは、別の道で帰ろう、と思った。



なぜか、あまり遭遇したくないと思った。



しかし、その晩、やつらは現れた。

福岡の街を全て飲み込むように、現れた。

雪だ。

その晩、福岡は雪に見舞われた。

先日、東京でも雪が降って大騒ぎだったが、福岡の街も似たり寄ったりで

高速道路は不通となり、路面が凍結し、人々は普段より早く家路へとついたのだった。



夜中にそっとカーテンの隙間から覗いてみると

「のっぺらぼう」は、街中に溢れかえっていた。

音もなく現れて、街中に佇んでいた。


自由詩 「のっぺらぼう」 Copyright 元親 ミッド 2013-01-21 23:13:12
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