【HHM非参加作品】それでも現代詩の発展に期待する
KETIPA

ごぶさたです。KETIPAです。
インターネットでは発信しない人間は死んだとみなされるので、もはや詩人でも何でもない死人であったわけですが、新しい年になったのでちょっとだけ生き返ります。
なぜ生き返ったかと言われてもあれですが、HHM(批評祭)なるものが開催されると小耳に挟んだり、その主催者様に随分昔の拙文を掘り起こされたりしたからという、それくらいの理由です。なんだかんだ言ってお祭りが好きなんだと思います。あと現代詩にまだ関心が残っていたということです。

こういう文章を書くたびに、枕詞に「現代詩を読まなくなって久しいけど」とか書くおれですが、それでも今現代詩がどうなってるか、これからどうなっていくのかがなんとなく気になってしまう。なぜ気になるかというと、現代詩の発展する可能性が潜在的に高い(と思う)割に、誰もそれを盛り立てられずにマイナージャンルに甘んじているからだと思う。早い話未成熟なジャンルだからです。すでに成熟したジャンルのごく一部で小さくまとまるより、まだ成熟しきっていないジャンルを拡げていくほうが面白いと思うんですね。

おれは何事にもあまりに表層的すぎ、刹那的すぎるため、現代詩の書き手としても読み手としても批評家としても中途半端な存在なので、第一線で活躍する意欲的なみなさんの輪に入れないような有象無象なわけですが、その分ジャンルとしての現代詩を遠巻きで眺める傍観者として、外からはどう見えてるかをたまーに発信できればと思っている次第です。外野は黙ってろと言われれば沈黙する死人に戻るわけですが、言われなくてもきっと忘却されて死人になるので同じ事です。ので勝手に外野でウダウダ言わせてもらいます。

さて最近、おれがちょっとだけ現代詩に希望を持ったことがあった。最果タヒ「空が分裂する」です。もはや説明もいらないかもしれないし、今更かよと言われるかも知れないけど、別冊少年マガジンに連載されたイラスト詩集です。第一線で活躍する漫画家によるイラストがついた現代詩ということで、最初聞いたときは、本当にその漫画家さんが描いてるのか、本当に連載されてるのか、と半信半疑もいいところだったけど、どうやらマジらしいということで、なんだ、現代詩捨てたもんじゃねえなと思ったもんです。

その「空が分裂する」への反応をこまめにウォッチしているわけじゃないので、それが果たして新しい読者、作り手を現代詩に呼び込めたのかどうかはわからない。しかしこれまでと全く異なる読者層へ、こういう形で露出することができたというそのこと自体が意味の有ることだと思う。化学反応はどこでどう発生するかわからないけど、物質がない所で反応は起きない。まさに火のないところに煙は立たぬということで、現代詩がちょっとだけ発火して、遠いところにまで煙が見えた瞬間だったんじゃないかと思っております(ちなみに「空が分裂する」のあとがきは個人的に傑作だったので、このあとがきを読めただけでも買った甲斐があった)。

思えば広告もマーケティングも、いわば火おこしみたいなもんだと思う。テレビや雑誌や新聞やネット記事やらで、発火させてあちこちに飛び火させ、話題や関心の炎を拡げていく。音楽であれば、それこそ音楽番組、ドラマや映画の使用曲、有線放送、音楽雑誌、音楽サイト、YouTube、ニコニコ動画など、数限りなく媒体があるわけです。さらに個人のブログやツイッターもミニ媒体となり、勝手に音楽が燃え広がっていく。音楽業界が危機的とは言われながらも、一度完成したこの延焼システムは、音楽に関心を持つ人が一定数いる限り途絶えない。最近あまり目立った動きがないけど、音楽配信サイトやポータル的な新たな媒体も、そこから自然に発生していく。ひるがえって現代詩はどうか。書き手や読み手の母数の問題もあるし、あまりどうこう言っても仕方がないけど、発火も目立たないし、なにより延焼していない。

だからHHMみたいに、発火を促すイベントがあると、どんな化学反応が起きるのかつい気になってしまう。今回は純粋に作品に対しての批評を募るということで、現代詩そのものへのツッコミがメインのおれは参加要件を満たしとらんわけですが、逆に「なんでもあり」じゃないだけに、面白くなるんじゃないかと思っとります。


また、活字で書かれた詩だけでなく、あらゆる作品を「批評」の対象として歓迎します。
小説にも、音楽にも、絵画にも、彫刻にも、映画にも、建築にも、
マンガのコマ割りにも、Youtubeで見たアニメの演出にも、
コントや漫才といったお笑いの作り出す“間”にも、ニコ動のネットアイドルのスカートの襞や足の小指にも、
「詩」が隠れていることをわたしたちは知っています。
(香瀬「HHM要項」(http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-202.html)より)


これまでの、作品論でも現代詩論でもなんでもござれというようなスタンスを脱し、しかも「現代詩への批評」という枠を超えた試みっぽいので、ちょうどいい制約がある分、参加しやすいかもしれんのです。以前カテゴリをもうちょい絞って探せるようにしようぜということを書いたわけですが、あまりに何でもありの文章群があっても、その中から自分の関心があるものを抽出するのが大変なので、今回のHHMで「作品論」に限定するのは良いんじゃないかと思っとります。それもまた「何のジャンルに対する作品論か」で区別できると、あとあと読む人が助かりそうですね。

しかし果たしてこのHHMが盛り上がるのか? 現代詩の復興に貢献するのか? というところははっきり言って未知数だけど、祭りにはそもそも成功や失敗がないんじゃないかと思うわけです。ただその祭りが開催されること、継続されること、いつまでも「現代詩はクソだ」「停滞している」と言われ続けることが大事なんじゃないかと。


八田一洋氏は、「そもそも歴史なんてあるのか」(http://www50.atwiki.jp/netpoemhistory/pages/15.html)において「ネット詩には歴史がない」とすら断言する。そしてそれは、ある種のコンセンサスとして成立してるように思える。ヴァーティカルでない場所。反復横跳びばかりで日が暮れる街。

ネットとはいつでもそういう場なのかもしれない。
右肩氏の言説はなにかを残せたのだろうか?相田九龍氏の一連のムーブメントは、ひとびとになにかを継承していくことができたのか?未詳24の更新が途切れた。poeniqueが活動休止している。現代詩フォーラム、文学極道、あなパイも、いつか、そして、まだ始まってすらいないHHMも、いつか、ひとつ、ひとつと重たいドアが閉ざされていく。ぜんぶいつかは無くなってしまう。それからは逃れられないのだ。だけど、だからこそ。
(コーリャ「しもつき七さんがオバさんになっても(HHM開催にあたって)」(http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-203.html)より)


J-POPも80年代、90年代という黄金期を経験したあと、今となっては衰退産業と言われるまでになっているけど、往年の名曲をカバーして掘り起こすだの、AKB商法でしたたかに成長するだの、使い古された手法を何度も繰り返したりして、しぶとく反復横跳びを続けている。そうやって動き続けている間は、炎が途切れずに済む。誰もJ-POPに言及しなくなり、忘却された時こそ、J-POPが死んで化石になる時だ。


人間は 祭りがないと生きていけないけど 祭りだけでも生きていけない
(小林銅蟲「まんが道なき道 6話」(http://negineesan.com/archives/michi/michi_06)より)


この祭が終わったら、また平穏に朽ちていく現代詩の日々が待っているのかもしれない。しかしその日々にも、次の祭で掘り起こされる作品が静かに溜まっていくのであれば、現代詩にもまだ希望はあるだろう。

HHMの参加者として火をおこすことはできないかもしれないけど、廃墟や遺跡の中で朽ちつつある多くの作品が、この祭で発掘、再発見され、ジャンルとしての現代詩の潜在的な可能性が呼び起こされることを、陰ながら期待しております。


散文(批評随筆小説等) 【HHM非参加作品】それでも現代詩の発展に期待する Copyright KETIPA 2013-01-07 22:55:00
notebook Home 戻る  過去 未来