伝統と変遷
salco
おせちは動物性タンパク質の祭典である。
それが昔はいかに御馳走だったかを偲ばせる、魚介・魚卵、獣肉・鶏卵
フェスティバル。肉食過多の欧米人もこれほどのヴァリエーションは食卓
に盛らないだろう。
重箱三段の満漢全席と言いたいところだが、元来は流通が山ひとつで遮
られた時代、内陸のお百姓なんかは棒ダラや身欠きニシンを有難がって戻
し、煮含めたのだ。これに現代の飽食文化が乗っかっての品目になってい
る。見栄えだけの寄せ物とか、ハムメーカーの戦略とか。
しかしワンコインで肉汁滴るタンパク源を摂取する現代、こんなものは
有難くも何ともない。市場が仕事納めしても元日からスーパーが開き、業
務用冷凍庫から肉や鮮魚が補充される昨今は、刺身の盛合せひと皿で事足
りる。恐らく第一波の核家族化よりも、新巻鮭は第二波のこれで存在意義
を失い絶滅した。
おせちは糖質と塩分のこれでもか、これでもか。
黒豆から焼き物、煮しめまで保存性の甘ったるさ・しょっぱさは、冷凍
と真空パック、レンジでチンが随意な日常の実勢とかけ離れている。
三大栄養素プラスしょ糖、塩分を毎日豊富に摂取している身で、年の初
めにこんなもん食って招福なわけがない。現に家人から制限がかかるであ
ろう成人病患者にとって、重箱の景色が面白い筈はないのだ。それで薄味
のおせち料理が美味しかろう筈もない。プレイメイトにA〜Cカップはい
ないが如しである。
地球の外で宇宙飛行士さえ納豆やドリアン以外はおおよそ何でも食える
世に、流通業界も料亭や仕出し屋に儲けさせておく手はない。かまぼこだ
の伊達巻だの、売場でも家庭でも大量に余る製品よりも、小分けのセット
を平べったい真空包装で供した方が良いのではないか。
おせちは「つつく」もので、腹を満たす為の行事食ではない。来客の数
に合わせてペラペラのパックを一枚、二枚と買う。余ってしまったら後日
のおかずや弁当に使う。消費者としてはその方がよほど助かる。
我が家も年ふるほどに売れ行きが悪い。これは、成長して行く甥姪の中
で食習慣の比重が増しているからだろう。珍しがってあれこれと手を出す
のは小学生まで。食べつけないものはやはり美味しくないのだ。なんちゃ
ってタンドリーチキンみたいなのがウケる。
おせちも本来「おふくろの味」であるものを、箸が進まないのは当然だ。
今にお雑煮もベシャメルベースが登場するのではないか。
しかしこいつらが大学生や社会人になって、修学旅行や民宿の粗略なも
てなしではなく、自分の料簡で選ぶ和食に舌が肥え出したらと、考えれば
恐ろしい。ノリやイヴェントとしてしか手料理しないおばさんのスキルな
ど、恥ずかしくて出せなくなること請合いだ。私の存在意義も絶滅に瀕し
ているわけである。