無題(静かな夜〜)
カワグチタケシ
静かな夜。まだ眠くはないが、電灯のスイッチを切る。大気が重みを増し、数百メートル離れた隣家から冷蔵庫の低いうなりが伝わってくる。窓ガラスに埃の粒が当たる音がする。ひとつ、ふたつ。そして、目がだんだん闇に慣れてくる。
長かった夏が終り、山並みを月が照らす。残照。揺れているものがある。崩れていくものがある。舞い上がり、落下するものがある。気配。僕の目はなにかを見ているが、じつはなにも見てはいない。
雲が動く音が聞こえる。雲は風に押されている。風はかたまりになって山肌をかけおりてくる。そして山頂には次のかたまりが、さらに高いところから降りてくる。雲の中で、幾千もの氷粒たちがぶつかりあう音が聞こえる。気温が下がりはじめる。
ほどなく山は冬を迎える。そして、霜が木々を覆うだろう。
はるかふもとの谷間から、電波の飛び交う音が聞こえる。温度を持ったかすかな振動が、信号となって光を発するときにたてる音。裸足の生き物が枯葉を踏む音が聞こえる。自分より強い生き物に狙われている者がたてる用心深い音。誰かが便箋にペンを走らせる音が聞こえる。文字。書きあぐねては、また紡ぎだされる曲線と点とがたてる音。インクが紙に染み込み、乾いていく音。
器官の音が聞こえる。そのころにはもう、闇はじゅうぶんに明るいのだ。