マリアと犬の夜
TAT
マリア・ローゼンタールはその日、職場で四回ミスをした。しかし本当に彼女の過失で起こったミスはその内の一回で、それは常連を気取った貧民上がりのワルクス人が不明瞭なLとRを混ぜた発音で姓を名乗った為だった。マリアよりも七つも若い二十二歳のアダージョはいかにも尊大な態度で新米社員の過失を赦し、その見返りとして彼女は自らの恋人と赤裸々な電話を交わしていた。それも最も繁忙な昼食前の三十分間の職務をボイコットして。秋の始まりの頃、グリーボールを嗜む富裕層の予約電話はスタジアムのフーリガンよりも節操が無い。次々に鳴る電話の対応に追われながらもマリアは仕事を捌いた。彼ら彼女ら(忌むべき悪鬼)が不躾に投げて寄越す電話の中には、未だ教わっていない仕事の範疇に含まれる判断を必要とする事柄も多く混じっていたが、マリアはこれまでに経験してきた様々な職務で培った電話対応のテクニックを駆使してそれに立ち向かった。
そうしてそれによって起こった二、三の事柄は彼女を更に奮い立たせ(具体的にはタニグチの取り違えていた予約の謎を解決した点が一つ、大口の貸切を獲った点が一つ、そして流暢なセオーネでボローゼ婦人に感銘を与え次回以降の専属の受付として指名を勝ち取った点がひとつ)、また別の二つの事柄は彼女の気分を地獄の釜へと蹴り落とした(ヒャップ伯爵の番号を示す6が七つのプラチナコールを取る際には『チャーム!』と猫のような卑屈な声で応じねばならない事を知らなかった点が一つ、プレイを終えたガダル中佐の支払い伝票は四枚に分けてその内の一枚はスパーニャの切手を貼ってその日の内に郵便夫に預けねばならない事を知らなかった点が一つ)。マリアの過失は大仰にいかにも深刻に受け取られ、それに反して業績はいかにも軽んじられて蔑ろにされた。
二一四七年式の古いホンダバルビアで弾道貫道線を駆ける帰路、マリアは転職と暴力を体現した退廃的な空想に遊び、同時に不良娘のように浅薄に憤って何かが解決する幻想に浸るのも直に止めねばならないと自分を戒めた。最後は敗北感と自己嫌悪にまみれながら絶ったはずの煙草に手が伸びる自分の意思の弱さを笑うしかなかった。まだ娘だった頃に勤めていたユーズ・マスカルビアのハンサムな男達、かの悪名高い星間公取引修正法によって不当に獄に繋がれたカル人の同胞たちがまだ生きていて今の自分を見たら一体どんな風に言うだろうと、そんな幻想に強く縛られた。ポティジオはきっと自分を叱るだろう。
『ゼーウスの辞書を引き直せマリー!』
或いはカオサルは?
『負けは負けだ。世話は無い』
そう言うだろうか?マリウス・ウヌ・マリウス、と。凄惨な青とグリーンの瞳で射竦めながら?そしてハリーは?くせ毛のロンサム・ハリーはきっとこう言うわね。
『マリア、君には反省すべき箇所が三つある。そして彼女にも、憐れな乞食のパンスケ・アダージョ・ベーグルドーナッツにも、恥ずべき箇所がやはり三つあるんだ。それは、、』
けれども私はいつも通りハリーの二の句を接がせない。攻撃的なスクワットで陰茎を絞めて彼の最後の希望まで残忍にミルクに換えて搾り取ってしまう。そしてキスの雨。そして束の間の日曜日の午前へと続く眠り。
不意にクラクションが追憶を裂き、安い怒号。中指とパッシングでそれに答えながらマリア・ローゼンタールは現世に蘇る。反射で撃った護身用ビームライトが先方様のフロントガラスの上で砕けて虹が降る。そしてふと認識する。
【人はみなそれぞれの愛を抱えているのだから、もしもアダージョ・ビーグルが愛しているのがハリー・ローンサマーによく似た男なら私は彼女を赦さねばならないのかも。】
家に帰るとマンマとパパオが相変わらず喧嘩していて、マリアは辟易しながらいつも通り仏頂面で夕食を済ませた。全くの無関心と無表情を装いながら。ベッドに入る前に地球の夏の夜を映した庭で煙草を吸っていると、豆柴のテイリオが寄って来て高い声で勇敢にワンと吠えた。いつもは頭痛薬に痺れながら追い払う豆柴の顔が身勝手にも今夜はくせ毛のハリーに見えてマリアは子宮に熱を感じた。
ドアーを開けて台所から豚の骨のスープに沈んだほうれん草の根の芯を取ってきてマリアはそれを犬にやった。尾を振りながら犬はそれを食い散らかした。明日の休みシフトに心を広げながら化粧が落ちるのも気にせずに、マリアは顔をべろべろと豆柴の子犬に舐めさせた。柔らかい肉球をぎゅっとつねり、背中に爪を立てて未曾有の恐怖に慄かせた。キャンキャンと吠える若いオスにごめんごめんと告げてマリアは輪ゴムを口に咥えて長い髪を後ろで結う。魔法でこてんと横倒しにして白い腹を祭壇に奉る。あたたかいやわらかな鞠のように脈を打つ豆柴のお腹に冷感症の骨ばった指を走らせた。
犬が切なそうに鳴いた。
身を預けた降伏の姿勢の下肢。下肢の中央に野草の芽のように若いしなやかな茎。魔が差したマリーは親指と人差し指と中指を唇にあてがい、つばをグリスのように粘らせた。ぬるぬると滑る指を神様のような速さで豆柴のペニスに走らせる。
右手が風に乾くまでずっと彼を責めた。
這うように鳴く声が細く弱くなり、細く強くなり、強く大きくなる。右手がやがて乾きほとんど反射で慌しく左手の三本に熱いつばを絡める。犬の赤い亀頭の肉に爪を立てないように。右と左が入れ替わったのを気取られないように。天国行きのマッサージを尚も続ける。
穢れを振り払う死と、希望に満ちた新しい生。
ジャンプするタナトス。
空を駆けるシリウス。
マリア・ローゼンタールは二月が来れば三十一歳になる。彼女はたまに遅刻するし映画の趣味が悪いし煙草も吸う。彼女の恋人は時代に負けて自然共闘主義者の烙印を押されたし、彼の子を堕胎した彼女もアメリカとリシアの土は踏めない身だ。彼女は今、時給二千九百イエンぽっちのグリーボール場の受付として働いている。今はもうCRVからも監視されていない。エニグマロックを掛けてからメールを送信する必要もなくなった。
しじま。
ガランゴロンと大きな音がしてマリアはふと囚われていた思いから気を戻した。付けっ放していたスカイテレビを見上げると新年の鐘を告げるニュースの映像が流れていた。今年も多くの参拝客が年初の祈願の為にとか何とか。月都ではすっかり恒例となった鏡写しが行われました。新年を迎えた今日地球では。
そう言えば今日は一月一日だった。
『、、。二千三百年だって。嘘みたい』
ためしにマリアはそう呟いてみた。勿論その声はどこにも届かなかった。明日も仕事だ。そうも呟いてみた。風が細く長く、その声に応じた。
(了)