長渕剛、70点
番田
触られるより触りたい派なのだということが、彼女は、手に取るようにわかった。女というのは、そのどちらかなのだった。錦糸町のイメクラで、何年か前に、なけなしの金で40分間のプレイを楽しんでいた。もう少し、こういったことを書きたいのだけれど、今でも金が無いからネタがなかった。オッパイを、強く、何度も揉んだのを僕ははっきりと記憶している。
だからといって、そこらの居酒屋でいつまでも生産性のない話しをし続けているのもつまらなかった。夕べは、古い友人と、カラオケで、朝がくるまで歌っていた。だけど、こういった休日も、歳を取るといいかげん飽きた。
社内や路上では、ああいった胸を揉むようなことは禁止されているから、何か自由を約束されたようでうれしい。だけど、どうでも良かった。そんなことは、たいがい、何も感じないという子を相手にしていては楽しいものではなかった。時間が無ければ、交友関係にしても、豊かにはならない。若くて金があって、時間がありあまっているという人は、昔のフランスの貴族ぐらいのものではないだろうか。ところで去年の僕と、今年の僕は、何が違っているのだろう。目を閉じると、多くのことが思い出として鮮明に思い出される。選択することで意味を無くしたのだと言うことだけが、意義を確かにはらんでいるようにも思えた。
来年も、僕はまた、挫折できたらと思う。挫折できないことは、するべきことではなかったのだろう。そう思った。体は衰えて、大して仕事で活躍できたというわけでもなかった。社会的立場が、体力の衰えていく僕を遊びの方向には向かわせないようだった。動き出すことは、何もしないよりも多くの意味を持つことだろう。何か、来年も行動を起こしたいものだった。的外れなことはあまりしたくはないけれど、胸を揉むような遊びも、結局生産性を生み出さないのかもしれない。もう、高校生の頃から、こんなことをやっている。今の時代に長渕剛を歌って、どこの誰が共感できるのだろう。共感できるのは、歌っている自分自身だけのようにも思えた。