なぎら健壱の時代
梅昆布茶
なぎらさんは僕より一個上ででも若者が変革を実感した時代の証言者及び旗手として、悲惨な戦いという名曲のシンガーとしていまだに東京下町のヒーローとして
卵焼き屋さんの息子テリー伊藤さんと並びおっちゃんカリスマの代名詞だが。
たまたま今「日本フォーク私的大全」というちくま文庫の本を開いて冒頭にオーバーオールを巡る若者文化論があってそこから全共闘世代やそれに近いぼくらの精神性にもなんとなく思い及んだわけである。
蛾兆さんが文極さんに言及してたのでついかきたくなったのだが。
言葉は財産権もない基本的な人間の機能だと思っている。
そしてそれが伝達機能のすべてではないことを思うのだ。
手話の方が綜合的にはコミュニケーションの手段としては有効だとする意見もある。
言語論ならソシュールとかそれに啓発されたであろう
レヴィストロースの構造主義とか。
想いをめぐらすことは誰にとっても考えうる限り最大の自由だとおもっている。
いつの時代も言葉を私物化してはいけないと思う。
詩壇なんて文壇なんてもっての他で
せめて民意をまとめて文学や詩として伝えるぐらいがいいと思うのだ。
ただ僕は知らないが2チャンネル化
しないで欲しいが
でも2チャンネルってどんなだったの?