白紙の日記
御飯できた代

 「何をするでもなく、ただ、白紙を埋める。その作業に没頭したのは、どうしようもなく不安だったから。心の端から端まで、黒く、赤くして、なんでもいいから空虚の色を残すことがたまらなく嫌だったの。それをわかってくれる?」
 真剣なまなざしで、八重子は言った。切りそろえられた黒髪が、蝋燭の光で艶めかしく光っている。病的に白い肌は暗闇からぼぉっと浮かび上がる。血色の悪い頬に、炎がほのかな紅を差して、いつもよりはふっくらとして見えた。
 「そんなこと言ったって。これは僕の日記帳じゃないか。こんな、何日も先が真っ黒だったり、真っ赤だったりしたら、いくら能天気な僕だって不安にさせられてしまうよ」
 芳郎は分厚い日記帳のページを荒々しくめくった。少し黄ばんだ紙は悲鳴をあげながら、左から右へ場所を移す。その大半には青や、黒のインクがびっしりと並んでいた。
 しかし、終りが近くなると、読み取ることのできない、一色――黒とか、赤とかで、ページが埋まっていた。その様子をなんとも不本意そうな顔で見つめるのは他でもない芳郎だ。
 「あのね、八重子、日記帳っていうのはね、わかるかい、記憶の記録なんだ。記憶っていうのは、人間の脳の中にある、それだ。僕たちは、ちょっと、というか、たいそう馬鹿な生き物だから、今日こんな風にお前と話していることも脳のどこかにしまい忘れてしまうんだ。だから、ちゃんと取り出せるように、こうやって書いておくんだよ」
 白の多いぎょろぎょろした目に涙を浮かべて、芳郎は言った。武骨な指いっぱいに、力を込めるものだから、筋肉質な腕は小刻みに震えていた。
 「そんなもの、取り出すことに意味はあるの?」
 まっすぐに八重子は芳郎を見る。
 
 「あるさ」

 さも当たり前のように、芳郎は言った。
 その時、部屋はしんと静まり返った。芳郎は背筋が冷たくなるのを感じた。誰も、受け取ってくれない、大胆なエラーボールを放ってしまった。そんな感覚を抱いた。八重子の部屋の調度品の一つ一つ――暗幕や、天蓋のついたロマンチックなベッド、彫の美しいクロゼットや、彼が座っている椅子でさえ、芳郎の言葉を拒否しているようだった。
 「八重子、君にはわからないかもしれない。
 なんてったって、君の世界はこの部屋だけだ。そうだろう。でもね、ここ以外にも、世界はあるんだ。たくさん、たくさんだ。それはもう、星の数ほど。わかるかい?」
 「いいえ、わからない」
 八重子は言った。その一言は恐ろしく部屋になじんでいた。芳郎の額には汗が滲む。
 「それでいい。今はいい。ただ、聞いてくれ。少しだけ聞いてくれ。僕は知っているんだ。世界がたくさんあるってことをね。八重子が知らないことだ。無理もない。お前はまだ15年しか生きていない。僕は君よりも十以上も離れている。だから知っているんだ。だから、だからお前は気にしなくていい」
「ええ、気にしないわ。兄さん」
 汗だくの芳郎をせせら笑うように、八重子は涼しい顔をして言う。それは絵画のように均整のとれた光景だった。
 「それでいい。それでいいんだ。
 でも、聞いてくれ。僕は、お前が知らない世界を渡り歩いている。それは、勢田史郎という男の家だったり、吉川商事という僕が勤めている会社だったり、高坂真菜という僕の恋人だったりする。彼らといる時間は、とても楽しかったり、いらだったり、泣きたくなったり、愛おしかったりする。彼らは、僕だ。彼らといた時間が――、記憶が、僕自身なんだ。わかるかい、八重子」
「まったくわからないわ。兄さん」

 蝋燭が短くなって、八重子の凹凸がはっきりする。さっきまでふっくら見えていた顔は、まるで骸骨のようになっていた。黄泉の国の番人にでもあっているような圧力に、芳郎は唾を飲み込んだ。

 「それでいい。……それでいいんだ。少し難しかったね。ごめんね八重子。
 簡単に言えば、――そうだ。彼らのおかげで、今の僕がある、そういう事だ。だからね、彼らといた記憶を取り出せば、自分自身を見ることができる。記憶を取り出すっていうのは、自分を見つめることなんだ、わかるかい。いや、わかるだろう」
 
 壁と壁が、芳郎に迫った。白いはずの壁は、蝋燭の火でオレンジ色に見えた。久しく電気を付けていない八重子の部屋は、もう白い壁を失ってしまった。薄暗い、闇色か、灰色か、炎の色。もう、そうなってしまったのだ。もう、白い壁は、そこにない。

「ぜんぜんわからない」

 骸骨が、しゃべる。舌の無いはずの、白骨が芳郎に言う。

「わからずやだ、お前は」
 疲労の呼吸をして、芳郎は八重子を責めた。
「兄さんだって、全然わかっていない」
八重子は立ち上がった。藍色のワンピースから覗く白い膝小僧が近づく。立ち上がっても、絵画は絵画のままだった。芳郎を見ていた瞳は、いつのまにか蝋燭に向いていて、膝は机で隠れた。しゃがみ込んで唇を炎に近づけると、再び頬が炎に染まった。ふっくらと肉づいた妹を見て、芳郎は安心した。温かい、そう思った。

 フッ、と視界が暗くなる。

「わたしよく夢をみるの。真っ白な世界で、私一人だけがいる。そんな夢。誰も周りにいないの。ただ目の前に、時計があって――。デジタルよ、アナログじゃない。それが、一秒一秒、ゼロに近づいていくの。わたしはこれがゼロになってしまったら、この世界が終わるんだって、なぜかしっているの。すごく悲しくて、不安で、叫びたくなるけど、声が出ないの。

 だから、嫌なの。白紙を見ると、未来がないみたいで」


 暗闇が、そう言った。
 芳郎は目をつむって、両手で顔を覆った。温度はあるのに、そこにあるものは見えない。膝にある重みに、日記の存在を確めた。そこにある、僕の9年10か月。欠かさず書いた、記憶の記録。
 だんだん、目が慣れて、暗闇に輪郭が浮かんだ。横長の長方形には、あるはずの文字が一つも見えなかった。闇に溶けてしまった。全部、白紙になってしまった。
 芳郎はまた目をつぶって、もう目を開けなかった。


散文(批評随筆小説等) 白紙の日記 Copyright 御飯できた代 2012-12-27 02:54:50
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