あずきの恋人 (連載⑤)
たま
外山先生はまた、立ち上がるとホワイトボードのまえでしばらく考えてから、青い字で、
わたしはここにいます。
……と、書いたの。
「たった、一行ですが、これでじゅうぶんだと思います。」
なにがじゅうぶんなんだろう? んー、むずかしくって、わたしへんになりそう……。
「この絵のなかには、あずきのさんの姿は描かれていませんが、ここには、あずきさんの日常があって、ぼくは、あずきさんの姿を思い浮かべることができました。そこで、もし、この絵に足らないものがあるとしたら、それは、あずきさんの声だと思ったのです。」
あ、そうか……、これは、わたしの声なんだ。でも、どうして声なの……?
「どうしてかと言うと、ひとは、声を聞くと安心するからです。ここに、あずきさんの声があると、この絵本を読むひとはなぜか、ホッと、ひと安心してつぎの絵をみたくなるのです。そうして、あずきさんの物語のなかに入っていくことができます。」
「じゃあ、先生……、詩でなくても、あずきのつぶやきみたいなものでもいいのですか?」
おかあさんが質問した。
「はい、そうです。たとえ、つぶやきであったとしても、それはきっと詩になると、ぼくは思います。あ……、おかあさん、とてもいい質問でしたね。」
「え、そうですか……。」
わっ、なによ、おかあさんったら、めっちゃ、うれしそうな顔をして、わたしが生徒なのよ!
「そうだ、鈴木さん……、たしか、付箋を持ってましたね。」
「へっ、フセン、ですか? あー、ありますよ。」
「ちょっと、貸してください。あ、えんぴつも……。」
外山先生は、鈴木さんからちいさな付箋とえんぴつを受けとると、椅子に腰かけて、
わたしはここにいます。
と、書いて付箋を一枚はがしたの。
「じゃあ、あずきさん、これを、その絵のうえに貼っておいてください。」
「あ、はい。」
淡い灰色の付箋をわたしは手にして、すこし考えてから画面のひだり下に貼った。そしたら、わたしの絵が急に絵本っぽくなったみたいですごくうれしくなった。
「あら、いいわね。あずき……。」
「うん、絵本みたい。」
「ふーん、ほんとだねぇ。じゃあ、あずきちゃん、この付箋みんなあげるから、ね、あたしも絵本に入れてね。」
また、鈴木さんだ……。わたしはもう、このおばさんを無視することに決めた。
「では、あずきさん、つぎの絵をみましょうか。」
「はい。」
わたしはスケッチ・ブックをめくって、外山先生がよくみえるように机のうえで、くるりと反転した。
「……これは、あずきさんのお家のリビングですね。」
「はい。あ、でも……、」
「ん、なに?」
「ちょっと、失敗したの。」
リビングにはひろい窓があって、窓の外にはしろい塀がちいさな庭を囲んでいて、塀の上にはイチローが腰かけている。でも、イチローの頭は画面からはみでてしまって、わたしはそれがちょっと、恥ずかしかった。
「あ、わかった。イチローの頭がはみでてますね。」
「うん……。」
「でも、これはこれでいいと思いますよ。とてもミステリアスで、この絵にストォリーを与えています。つまり、画面からはみでてしまったイチローの顔の表情がちょっと気になって、思わずこの絵のストォリーを思い描いてしまうのです。それと、リビングのテーブルのうえには、あずきさんのスケッチ・ブックが開いた状態で置いてあります。これもいいですね。とても、おとなっぽい演出だと思います。」
外山先生はそう言ってこの絵を褒めてくれたけれど、わたしの頭のなかはもっとミステリアスだった。なんだろう……、とても不思議な気分だった。外山先生のひと言で、わたしの絵が虹のようにかがやいて、わたしはその虹のうえを歩いてわたる、絵本のなかの少女のような気がする。
わたしはそんなじぶんがちょっと、好きだなぁ、と思った。
そうだ、ひょっとしたら、外山先生って、魔法使いかもしれない。わたしはなんだかそんな気がしてきた。きっと、外山先生はわたしに魔法をかけたのだ。
「はい、これ。」
えっ、なに……? 鈴木さんがわたしの絵のうえに付箋を置いた。
「うん、それは宿題にしましょう。あずきさん、お家に帰ってから、さっき、お話したあずきさんの声を考えみてくださいね。」
外山先生がそう言ったので、わたしは、はい……って、ちいさな声でへんじしたの。
もー、このおばさんったら!
「では、つぎの絵をみてみましょう。」
そう言って、外山先生はスケッチ・ブックをめくった。
玄関のしろいポストのうえに、イチローがすわっていた。イチローはわたしに背を向けて、顔の表情はみえなかった。
「う……ん、いいですね。このイチローのうしろ姿、なんとも言えない哀愁がにじんでいて、とてもすばらしいです。」
え、アイシュウ……?
「あ、ごめん。また、むずかしいこと言っちゃったかな? えーっとね。じゃあ、ひとつだけ質問しますね。あずきさんはたまたま、イチローのうしろ姿をみたのですが、そのとき、どうして、イチローのうしろ姿を描きたくなったのでしょうか?」
「ん……、気になったの。イチローなに考えてるのかなって。」
「うん、そうですね。あずきさんが気になったのは、イチローのうしろ姿に哀愁を感じたからだと思います。ぼくはこの絵をみて、イチローは、なんだかさみしそうだなって感じました。あずきさんはどうでしたか?」
「うん、わたしも……。」
外山先生はうれしそうにうなずいた。
「猫であっても、ひとであっても、うしろ姿には顔がありません。でも、うしろ姿にも表情はいろいろあるのだと思います。うれしいときは、うれしい表情。さみしいときや、哀しいときは、もの哀しい表情……。そして、イチローにだって、だれにも伝えることのできない、切なくて哀しいひみつがあるのでしょう。だから、こうしてうしろ姿をみせて、だれかがそのひみつに気づいてくれるのを、待っているかもしれませんね。」
切なくて、哀しいひみつ……、なんだろう? もし、イチローにそんなひみつがあったら、わたしもすごく悲しくなっちゃうと思った。
「先生……、イチローのひみつって、なんですか?」
「あ……、そ、それはね、えーと、イチローに聞いてみないとぼくもわからないけど、たぶんね、イチローは、あずきさんになにかを伝えたいのだと思いますよ。」
「え……? わたしに……、ですか?」
「あらっ、なにかしら?」
おかあさんもびっくりしたみたい。おかあさんとふたり、顔を見合わせて考えてみたけれど、思いあたるものは何もなかった。
「あー、あたし、わかっちゃったわよ。ぐふふっ……。」
うっ……、鈴木さんだ! やっぱし、でてきたわね……、
「もぉー、鈴木さんったら、こんどはなによ!」
わたしは思わず、おおきな声をだしちゃった。
「ねぇ、あずきちゃん、イチローはね、あずきちゃんに恋をしてるのよ。きっと……。」
え……、恋?
そんなの、うそだぁー。
つづく