趣味について、または詩について
まーつん

 暇だし、日曜だし、外出するのも億劫なので、趣味について書いてみようかと思う。
 ゛お前の趣味なんて、誰が知りたがるんだ? ゛と思ったそこのあなた。侮ってはいけない。僕にだって興味を持ってくれる第三者の一人や二人はいるのだ。多分。

 ポイント? ポイントを気にしていたら、好きなように書けないではないか。そりゃ入らなかったら気にする。大いに気にするよ。でも別に死ぬわけじゃあるまいし。ケチな自尊心が少しスネるだけのこと。

 窓ガラスの奴は鬱陶しいぐらいの青空を映していて、゛ほらほら、こんな陽気なのに、外に出る用事が何もないなんて、お前さん、どこまでつまらない男なんだ? ゛と嘲笑っている。バットでたたき割ってやろうか、とも思うが、そんなことをしても冷たい風が吹き込むだけのことだ。何の得にもならないのでやめておく。

 さて、趣味の話だった。人様にも打ち明けられるような品のいい趣味というと、読書か映画鑑賞か。音楽、ギター演奏なんていうのもある。あとは散歩か。ランニングは最近少し休んでいる。少々無理しすぎたらしく、走っていない時でも、心臓が不満の声を上げ始めた。苦しくなったり、動機が早まったり。そこで、かれこれもう二週間ばかり走っていない。それでここ数日はだいぶ回復してきた。やれやれ。

 詩作は趣味の内に入るのだろうか。入るだろう。それで食っているわけではないのだから(そこのあなた、笑わないように)。考えてみれば、僕にとって数少ない、創造的な趣味だ。音楽鑑賞も映画も、あるいは読書も、与えられた情報を吸収していくだけだが、詩作は逆に、自分の内側から何かを取り出していく、見つけ出す作業な訳で、なんだか誇らしいような気分にさせてくれる。思うがままに書き上げた時の満足感は、よく出来た映画に我を忘れた後に感じるそれとは、まるで違う。どちらも素晴らしい感覚だけど、中身が違う気がする。

 それはなんだろう、レストランにおける、料理人と客の違いの様なものか。思った通りの味を表現する喜びと、美味いメシを平らげる喜びと。満たされるのが、プライドか胃袋かの違い、ということだろうか。

 実は最近、詩作が面白くない。世の中を見渡せば、面白くて刺激的な詩はごろごろ転がっている。僕が見渡している゛世の中゛は、だいたいこのフォーラムの中に限定されているのだが。面白いのは、僕にとって本当に興味深い作品を書いている人たちは、あまり周囲からの評価を気にしていないように思えることだ。
僕は違う。ポイントが入らなければ落ち込む。だから、周りの見方に左右されない、そんな一掴みの書き手たちが正直うらやましい。

 学生時代は、よくギターを抱えて、歌を歌っていた。周りがどんなに迷惑顔をしても、割りと平気だったと思う。他人にどう受け止められるか、ではなく、自分がどう感じるか、で、゛今の自分゛という人間の価値を量っていた。自分は偉大な表現者だと、心底信じられるくらい思いあがっていた、ということもある。

 若かったからだろうか。馬鹿だったかもしれないが、冷めてはいなかった。臆病だったかもしれないが、痛みを知っていた。今はどうだろうか。馬鹿なのは相変わらずだが、我が手の書き綴る言葉は、冷えたスープのように味気なく思えることが増えてきた。相変わらず臆病だが、痛みを避けるすべは学習しつつある。だけど、その代償に、何かを見逃しているような気もする。手放しているような気もする。何か大切なもの、価値あるもの、コックが熱い料理を供するのに欠かせない要素。

 それはなんだろう?
 熱?

 当たっているかもしれないが、抽象的すぎて、何のことやらだ。

 では、熱をもたらすものは何か。
 火か。

 では、私たちが内に抱えている火とは、なんなのだろう。かつて若き日のわが手が綴る言葉に温もりを与えていた、その熱源はどこにあるのだろうか。

 知識ではなさそうだ。知識とは積み木のようなもの。僕が探り当てたいのは、それを積み上げようとする指先の正体だ。

 思考か。でも、思考とは、ギアボックスのようなもの。僕が探り当てたいのは、それを駆動させる力の正体だ。

 感情か。そう、たぶんそれだ。僕という存在の根っこから最初に伸びている茎-それは喜び、悲しみ、怒り、といった一連の感情だ(しかしこうやって主だった感情の種類を書き並べてみると、その呼び名の、なんて凡庸で月並みなレッテルであることだろう!)。

 そういえば、以前ある書き手が、こんなことを言っていた。゛感性とか感情とかいう言葉は大体の場合努力不足の言い訳に使われる゛、と。多分その通りだろう。ある意味、努力と感情とは、言葉と暴力の関係に似ている。体が大きく、力あるものにとって、異議を唱える相手を黙らせるのに腕力ほど手頃な手段はないだろう。だがそれを是としない人たちは、言葉で相手を説得しようとする。
 
 感情とは、誰もが持っているものだ。だが言葉は、その質と量は、使い手の゛努力゛によって上下される。暴力は怒りという感情によって喚起され、だから安易で未熟なものだとされる。そして怒りは、誰かに教わったり、学び取ったりして手に入れるものではなく、本来そこにある、感情という存在の一形態だ。だが、言葉は学習によってしか得られない。少なくとも一般的にはそうだとされている。要するに感情より言葉の方が、手に入れるのにより多くの努力を要される。親や、学校の教育。語彙、文法、発声。感情と違って、言葉はタダでは得られないのだ。

 だが、対価を求めない存在に価値がないのか、というと、それも違うはずだ。感情には価値がある。人間にとって感情とは、その存在の根幹をなす要素だ。感情を軽視するのは、空気を軽視するのと同じくらい馬鹿げている。空気はタダで手に入るが、だからといって価値がないとは言えるだろうか。私たちは、それがなくては生きてはいけない。息ができなくなってしまう。

 感情がない人間を想像できるだろうか? 罪なき被害者に暴力をふるった犯罪者を指さして、゛あいつは人間じゃない゛゛心ない仕打ちだ ゛と人は言うが、彼(もしくは彼女)にも感情はあるはずだ。ただそれが、周りには見抜けないだけだ。その内面があまりに暗すぎるからだろうか。人は月のない夜、真っ暗な闇に覆われた屋外に恐れを覚える。それは未知に対する恐れであり、夜が明けて、日差しが闇を掃き清めれば、見慣れた景色に安堵するものだ。私たちは単に自分には理解できないものに、都合のいいレッテルを張っているにすぎないのではないか。

 人に感情がなかったら、罪もまた無いだろう。感情のない温血動物…そんな生き物を想像するとき、僕は、植物のような人間を連想する。決して動きもせず、語りもしない生き物。植物には動物にはない美しさがあるが、それは野を駆ける躍動感とは違う。胡坐を組む禅僧のように、植物は身動きもせず、ただ一心に成長していく。それでいて春になると、どんな洒落者の動物たちが束になってもかなわないような華やかさで、その身を飾るのだ。

 なんだか話が脱線してしまった。趣味について話し始めたはずなのに、どうしてこんな袋小路に迷い込んだのだろう。たしか、詩について話していたんだっけ。そうそう、最近自分の書く詩はつまらないという愚痴になって、昔の自分はもっと瑞々しい感性をしていたという回顧になり、ではどうすればそれを取り戻せるのか、大切なのは瑞々しい感情なのかという仮定を立て、しかし唯感情に任せて書き殴っていたのでは、その技巧は進歩しないのではないかという危惧が加わり、では技巧と感情のどちらが大切なのかという新しい疑問が持ち上がり、高い技巧には学習という努力が求められるが、感情はタダで手に入る、故に高い対価が求められる技巧にこそ価値があるのかもしれないという見方が生まれ、しかし対価が伴わないものに価値はないとは必ずしも言えないのではないかという反論が上がり、そこから生物にとっての空気の貴重さを喩えに上げて感情の大切さをとうとうと謳いあげ、人間という種全体にわたる感情の偏在を主張するため犯罪者まで引き合いに出し、それに対して逆説的な論証を目的として人間への感情の不在を仮定することから植物の生き方の在り様にまで話が広がり…

 頭が混乱してきた。昼飯でも食おう。アジの開きとご飯にするか。

 (続く、か?)


散文(批評随筆小説等) 趣味について、または詩について Copyright まーつん 2012-12-09 15:14:45
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