(批評祭参加作品)原口昇平という名の色
いとう

たとえば「赤」という色を、すべての他者が、自分の感じる「赤」
と同一の「赤」として認識しているのだろうか。感じる「赤」が異
なっていても、赤という「言葉」でそれが統一・集約されている限
り、その違いに気づくことができないのではないのか?

上記の問いはおそらく、誰もが幼い頃一度は自身に投げかけるもの
であり、様々な学術へつながる第一歩でもある。特に言語学におい
てはシニフィアン、シニフィエの概念にも通じる。

…シニフィアン、シニフィエについて…
周知であると思われるが、一応、知らない人へ向けて。
端的に言えば、シニフィアン=その言葉が指し示す対象、シニフィ
エ=その言葉に付随するイメージ。このシニフィアンとシニフィエ
が一体化したものがシーニュ(=記号)である。言語は記号なので、
すべての言葉はシニフィアン、シニフィエの両輪を伴っているとい
うことになる。


「色」の話に戻ろう。いや、違う。色の話をするのではなく、色と
いう言葉、色というシーニュについて話そう。あるいは「色の話を
する」という言葉のシニフィエについて話そう。

会話において、シニフィアンの一致はコミュニケーションの基礎と
なる。「りんご」と言われて「みかん」を思い出すのなら会話は不可
能だ。そして、シニフィエの相互理解がコミュニケーションの醍醐
味なのだろう。ここで注意したいのは、シニフィエの共有ではなく、
相互理解であること。

原口昇平氏の作品に中には、時折、色以上の意味合いを持った色が
登場する。シニフィアンを凌駕するほどのシニフィエを有したシー
ニュだ。ここで扱う作品、「(……のいない風景)」においては2種類
の色が登場する。
青と、白。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=23742

最初に言っておくが、彼の中のシニフィエを、もちろん完全に理解
することはできない。「相互理解」と前述したが、それは、真の意味
においては共同幻想だ。しかしこの幻想は絶望として存在するので
はなく、希望として存在するのでもなく、ただ単に、状態として存
在している。その状態を以って、我々は関係性を築く。それに向か
うこと自体がコミュニケーションであり、我々とは、そのような生
き物なのだ。そのように生きる。生きている。そしてそこに、信頼
が生まれる。自身のシニフィエを振りかざすだけでは、信頼は生ま
れない。



「青」のシニフィエ。


> その左右におぼれている、
> あなたの書いた字が
> 青くはだけている、
> 誰も
> 座れない


「青」は難解だ。
古い虹にまかれている「あなた」の左右。そこに「あなた」の書い
た「字」が「青く」はだけている。青くはだけているために、誰も
座れない。「字」は表現だ。「あなた」の残したものだ。青くはだけ
た、残されたものによって、他者は寄り添うことができない。


彼の他の作品の中の「青」をいくつか挙げてみる。
「レフ」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=23281)。


> 置き去りにされ
> 花束は
> 元の字がわからないほどの
> だんまりの青に


と、ここでは「だんまりの青」とある。


もうひとつ、「殺戮の時代」
http://poenique.jp/kotodama/sikai0206.htm)。
数カ所に「青」が登場する。


> 夜ばかりではない
> ほんとうはもうずいぶん前から
> あのあかるい遠さの病院で
> まどろみのなか横たわっているだけなのに
> 部品のひとつとして青く剥がされては
> また青く組み立てられていくまま


>                  お前の
> ねたみだとでもいうように。そうじゃない、
> お前のかなしみ。誰も知らない。私、の複数
> 形をあらわす言葉は私たちではないから。影
> だけが暗く川底にはりついて呟く。戦争、戦
> 争、戦争、青が


> 窓に
> 部屋のない場所
> 時折顔ぶれが
> 青く終わっているだけの
>  
>  
> めずらしげに垂れる
> さむい夕涼みの声がする
> 骨のまるみを殺した
> 球形の女の小鳥がする
>  
>  
>  あおいろの青空
>  あおいろの青信号
>  あおいろの青写真


抽出なので語弊があるかもしれないが、各作品中の「青」には、一
貫したイメージがつきまとう。そのイメージとともに作品を読み返
すと、作品自体のイメージもまた、以前とは異なった断層を示し始
める。このイメージを言語化しようとも考えたが、それにより彼自
身の持つ青のシニフィエとのズレが生じることを恐れ、敢えて説明
はしない。白状すれば、自身の中でいまだすっきりとした結論を持
つに至っていない。ズレをズレのまま放出することにより、作品を
硬直させてしまうのを、何よりも恐れる。青についてはここまで。
これ以上は、言語化する弊害の方が大きいと考える。


「白」のシニフィエ。

白については、青よりもわかりやすい。ネット上で彼自身が「白」
についての言及を彼自身の言葉で何度か述べているだけでなく、最
近になって、「白」についての作品を発表しているからだ。なので
「白」について踏み込んでいくために、その作品を提示しよう。
「決闘」(http://www.cmo.jp/users/siesta/lib/duel.html)。

一読してわかるように、この作品は彼の現時点での「白」のシニフ
ィエに溢れている。まず、少なくともはっきりとわかるのは、彼自
身の中で白は色としてではなく概念として存在していること(青も
同様に)、そして、様々なイメージが描かれながらタイトルの「決闘」
へ収束していくこと(つまり、白い決闘が在るのではなく、白と決
闘は同義として扱われていること)、これらの点であろう。ちなみに
「決闘」という言葉のシニフィエにも彼自身特有のものがあると思
われ、一般的な「決闘」のイメージとして考えると誤解を生む可能
性が高い。けれどもここでは「青」と「白」の二つに絞って論じて
いるので、「決闘」のシニフィエについては扱わない。

話を少しそらすが、この「決闘」と「(……のいない風景)」は「白」
以外においても明らかな関連性を有している。「白い、/決闘、」と
この作品を示唆する表現があるだけでなく、「八月」、「夏」というイ
メージ、「焼きつける」という言葉も重複しているのだ。


> けが、古い息をころした
> ひとびとの、夏を
> あなたのなかに焼きつけて
> いる、
> 白い、
> 決闘、
> 争われたすべての影に

    (「(……のいない風景)」より)


> 白は決闘
> そしていまもそこにある
> 八月の熱線に焼きつけられた
> ひとりの
> 影

    (「決闘」より)


これらの重複についても興味を持っているが、残念ながらここでは
割愛する。ということで、論に戻ろう。「白」のシニフィエを顕在化させるために「決闘」を持ち出しているので、その点を中心に拾っていく。


A群

> 白には家族がいない

> 白は別れに添えられた宛名のない手紙
> 言葉を拒む
> それこそが叫びであるかのように
> みずからのいろどりのなかで凍えている


B群

> 白はある朝そっとめくられたカレンダーのあとに
> いまだ記されていない無数の日付

> 白は始まることがない

> 白は
> あなたの眼球の
> 死ぬまで何も見ることのない部分のいろ


C群

> 白は母のまなざしに似て
> くらやみのなかを満たしている

> 白は美しい黒炭のなかにある


上記は順不同、意識的にカテゴライズしている。もちろん他の部分
も「白」に関わるものであり、上記の群と密接に関わりながら作品
を形成しているが、論を展開していくうえで必要なものとしてこれ
らをまとめてみた。

まずA群は、無関係性、あるいは関係性からの解放についての描写
と捉えられる。関係性がないということは、つながっていない、ま
たは、(私自身の言葉を使うなら)名付けられる以前の、あるいは名
付けられるべきでない存在ということだ。
ここで注目したいのは、「言葉を拒む」という描写。これにより、
「白」はそれがそのままで「白」であるのではなく、様々な“名付
け”の中で、それらを拒絶して「白」であることを獲得した存在で
あることがわかる。
(余談になるが、このせめぎ合いこそが、「決闘」のシニフィエにつ
ながるのではないかと推測している)

B群は、A群を別の角度、すなわち、「他者」から、「白」を見据え
たものである。無関係であるが故に、他者からは「白」を認識でき
ない。関係の中で何らかの行為が「始まることはない」。しかし、そ
こに「白」はある。むしろ、そこにこそ「白」がある。
「白」とはそのような存在、あるいは概念だ。関係性として現れる
以前のものとして、純粋に存在するものが「白」なのだ。

C群は、「黒」との視覚的対比だけではなく、「白」に対する作者の
心情が入り混じっていると思われる。それが端的に現れている部分
が、「母のまなざしに似て」と「美しい」。どちらもプラスのイメー
ジを有している(「母のまなざしに似て」は異論があると思うが、私
自身はそのように捉えている)。つまり、作者自身の意識の中では、
「白」であることはある種純粋性を保った、肯定的な在り方であり、
「白」のシニフィエに彼自身の中でネガティブなイメージはない。
彼にとって、「白」とはそのような色なのだ。属さないこと、属して
はいないこと、属すことから離れていること。これらがとても大切
な要素(そしてそれは戦いの末に獲得されたもの)であるように感
じられる。


ところで、彼自身、「白」についての言及を自身の言葉で何度か述べ
ている。そのほとんどはネット上で消えてしまっているので、全体
像を示せるほどの例は挙げられないが、ひとつ、その片鱗だけ。



原口->透明性というか、それに似たことかも知れませんが、ぼくは
ホワイトルーム(撮影に使われたりする、真っ白の部屋です)のよ
うな場所を想像していました。

(中略)

よだかいちぞう->生々しくないんですね
よだかいちぞう->原口さん

(中略)

原口->そです、ぼくにとって。生活してるようなところがないとい
うか。>よだかさん<で、心残りのような、執着とでも言ったらいい
ようなものは、わかります。



これはBIRDMANというサイトで行われたオンライン合評会のログ
より。
http://birdman.serio.jp/toku/toku1.htm
「ホワイトルーム」という言葉が用いられているが、これは「白」
のシニフィエにつながるものであると考えられる。そしてそれは彼
自身により「生活してるようなところがない」と置き換えられてい
る。彼にとっての「白」は(他の、消えていった、しかし「読んで
しまった」彼の発言からも鑑みて)、この「生活感のなさ・生々しさ
の欠如」というイメージに変換可能だ。
(注:「読んでしまった」という表現については、彼自身の文章「批
評についての断章(抄)」を参照して欲しい
http://www.cmo.jp/users/siesta/lib/frag1.html))

このログが2003年の1月末のものであるのに対し、「決闘」は2
004年秋(確認できる最も古い発表期日は10月3日)のもの。約
1年半のタイムラグが彼自身の「白」にどのような変化・発展をも
たらしているかも、ここから推測できよう。



さて。「白」のシニフィエを追究するために「決闘」を見てきたので、
ここで「(……のいない風景)」に立ち返る。敢えてここで全文引用
する。「青」と「白」に留意して読んでみたい。読んで欲しい。




(……のいない風景)



あなたは、
短歌の姿勢で立っている
夢、
見る、
その眼球は内側から風景に食い破られている、
あなたは手を合わせて、
頚椎のしびれを

海鳥たちに任せている、
このからだを失くしたがって
窓に映りこんだ日の、
あなたが
古い虹にまかれて

その左右におぼれている、
あなたの書いた字が
青くはだけている、
誰も
座れない

誰もあなたに似ていない
この世の花、束、

横に置、いたま、
ま、あ、なたのく、
ちづ、

けが、古い息をころした
ひとびとの、夏を
あなたのなかに焼きつけて
いる、
白い、
決闘、
争われたすべての影に

あなたは黙り、
沸騰し、
外れて、いる
空の画布を
裂い、て
投げ出された手足、
砂浜に忘れられた

椅子の




この作品の全体像について述べるのがこの批評の目的ではないので、
解説等をするつもりはない。ただ、「青」と「白」に留意した場合、
「誰もあなたに似ていない」「あなたは黙り、/沸騰し、/外れて、
いる」、特にこの2ヵ所が、留意する前よりも特別な印象を持って浮
かび上がってくるのは、私だけの気持ちだろうか。またそれは、一
歩、彼自身の色に近づいたことにならないだろうか。

今回は「青」と「白」を通じて彼の詩に近づいた。そして彼の詩自
体はもちろん、彼の「色」につながっている。しかし、この色を、
原口昇平という名の色を、理解することはできない。それは誰にも
できない。彼には彼の、彼自身の、大切な色があり、それを「他者」
に伝えるために詩を書いているわけではない。そしてそれを名付け
る資格など他者にはない。ただ、感じるのだ。彼の詩を通じて。彼
自身の色を。

我々は、そのように生きる。生きている。詩はそこにある。




散文(批評随筆小説等) (批評祭参加作品)原口昇平という名の色 Copyright いとう 2004-12-18 21:21:29
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