リルケから若き中島敦への手紙
すみたに



 さてこれは一つの『山月記』論である。
 
 リルケの「若き詩人への手紙」(新潮文庫)の豊かで人を救う敬虔な文章に、
 ぼくはすっかり夢中になっている。
 だが、それだけではまるで読書と言うのは儚いではないか。
 ぼくは読書をする時対話をする。
 まだみぬ、そしていつかみることがあるかもしれない作者たちの精神と。
 そしてそれは鏡像である。
 それで、話はとおくへと、別の世界へと飛んでいく。

 それが今回の中島敦の『山月記』論である。

 漢籍だけでなく、古今東西の書物に通暁していた
 明治・大正・昭和初期のステレオタイプな作家や知識人。
 中島敦はサラブレッドであり、エリートであったから、
 このステレオタイプは彼に関してはあながち間違えではない。
 彼の博識と、文章感覚における論理はまさしく一級品である。
 
 その彼の『山月記』は主人公の李徴が姿をくらましてから幾年も経ち、
 そのうちにかつての同僚が虎となった李徴と遭遇し、問答をする。
 最後に虎となった李徴は言葉を、
 詩を、
 ニンゲンを失くしてしまう前に一つの漢詩を遺言としてものす。
 これが大まかな筋である。
 
 これはどうやら中国は唐の時代に書かれた変身譚「人虎」に取材したようだが、
 そういったパロディ、換骨奪胎、変奏というのは文学手法の神髄であるが、
 新たな作品の本質との関係は、推して知るべしなことが多い。
 でなければ当然、パロディとは言えぬからだ。

 物語、
 ことに民話的要素、神話的要素をもつ文というのは、
 すべてメタ的でかつアレゴリーの迷宮である。
 そして小説と言うのは単なるアレゴリーであってはならないと言ったのは、
 こうした迷宮を鮮烈で強靭な知性で打ち立てたボルヘス本人に外ならないが、
 だからこそ、
 その寓意をもったパペットたち=象徴たちが自在に動き始め、
 自身思考するところ――
   つまり象徴自身が己はなにのアレゴリーなのかと考察し、
   精神歴史的に遡行してい所――にこそ
 小説の大胆さと強靭さがある。
 ――だから小説はまたすべて物語を孕んでいる以上、
   メタ的でアレゴリーから逃れられない、
   前者は諏訪哲史も『アサッテの人』で述べており、
   後者はやはりボルヘスが『異端審問』で述べているところだが――
 つまり「汝自身を知れ」というソクラテスに告げられたデルフォイの神託は、
 小説の始まりでもあるのだ。
 そしてプラトンはソクラテスに哲学的対話をとうとうと語らせた。
 これは小説で会ったのだ。
 これははじめいった、読書における対話との対関係になっている。

 そして話は『山月記』へと戻る。
 作者の中島敦は虎になった李徴に、作中で述懐させている。
 「肥大した臆病な自尊心」ともいうべきものをもっており、
 それが我が身を虎へと変じさせたのだ、と。
 虎となってようやく自己を知ったからこそ、
 この小説は虎になった李徴が表れるところが機縁となっている。
 しかしながら、李徴=虎は、
 「肥大した臆病な自尊心」というアレゴリーで終始した存在なのだろうか。
 一匹行動する虎になり孤独にうちしずむということが、
 世間から疎外され、ニンゲンとしての自己疎外を引き起こし即ち虎化
 ――つまりポスターの自分こそが自分であると思い込んだが故の狂気――
 となって理性からの遁走を果たした、というように理解されて良いのだろうか?

 例えばニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を思い出すと、
 そこには獅子や鷹、蛇が出てきて、
 龍=汝なすべし、に対して獅子=我は欲す、へとなるべきだと述べられていた。
 そして龍の牙を抜き、
 蛇としまえば良いという事であろうか。
 この換喩としての獣たちは、善悪の彼岸に立つツァラトゥストラに追い従い、
 人間よりましな存在であったはずだ。ならば虎はどうだろうか。
 虎、まさにこれもまた龍と争う意志の表れではないのか。
 そして、
 人間であった頃の李徴は乗り越えられるべき存在として、
 消え去ろうとしているのではないか。
 
 なぜなら彼は確かに、臆病には違いなかったからだ。
 彼は人目を気にし、人の中へはいってゆきたいが故に、臆病を痛感していた。
 自らの詩を読んでほしい、切磋琢磨したいという考えがあったにもかかわらず、
 それは自分の詩がなんたるものかを、
 彼自身は他人に委ねて知らないでいたかっただけだったのだ。
 単純に嫌な予感におびえていた彼はまるでメランコリーで、
 ちょっと思い逸らしたがために、
 悪夢のの後甲虫に変身してしまったカフカのグレーゴルと同じように、
 虎へとかわってしまったのだ。
 
 自分の優秀さを自覚するが故に自分が可愛く、だから傷付けられなかった彼は、
 自分の中に一頭の獣を飼っていたといったが、
 その獣は確かに同じ意志するものであった。
 だが獅子と虎は決定的に違う。
 獅子は愛せばこそ、崖から突き落とす存在である。
 まるでサバンナの赤岩剥きだした世界に住む獣と、
 時には悠々と沐浴さえできる過剰なジャングルに住む獣の決定的な違いである。
 また、誰もがなんらかの獣を飼っていることは言うまでもないだろう。

 そして李徴は愚人ではなかった――なかったからこそ、周囲の人間への眼差しを――
 彼は自己弁護をするように優しすぎたから――同情的にしてしまう。
 だから彼は自尊心をもつことにこそ、本当は人一倍の恐れを抱いていた。
 臆病とはなにより自己への臆病だったのだ。
 そしてエコーの風吹く中湖へ沈んでしまったナルキッソスのように、
 虚像を愛する自己愛を肥大させていきながらも、
 自然にあるべき非認知の自己愛を持っていないように、
 彼も確固たる自尊心を持てずにいたのだろう。
 そしてそれはまさに同情的眼差し故であった。彼は自分の詩に自信が持てなかった。
 

「あなたは御自身の詩がいいかどうかをお尋ねになる。あなたはお尋ねになる。前にはほかの人にお尋ねになった。あなたは雑誌に詩をお送りになる。ほかの詩と比べてごらんになる。そしてどこかの編集部があなたの御試作を返してきたからといって、自信をぐらつかせられる。では(私に忠言をお許し下さったわけですから)私がお願いしましょう。そんなことは一切おやめなさい。あなたは外へ目を向けていらっしゃる。だが、何よりも今、あなたのなさってはいけないことがそれなのです。」
リルケはある若き詩人へという。

 彼の意志は外へ向かってしまっているのに、
 閉ざしてしまう。円環へとはいりこんでしまった。
 そしてその円環こそ、虎の檻となっていたのだ。

 だが彼は虎になり忘却を重ねるうち、自己が何者なのかを忘れ、
 忘れていくが故に自己を明らかとしていく。
 なぜなら鏡像などない獣の世界において、世界は唯我的に現れるからだ
 そしてとうとう彼の意志は軌道を外れて虚無なる宇宙へと飛び始めようとしている。
 そして崖際での遠吠え――その我在りの叫びは、月まで届いてくれるだろうか。
 が、その我は、その獰猛で力に満ちた声で自覚されるように、虎であるのだ。
 まさに、お前=俺は虎なんだ、と、自己宣告する叫びなのだ。
 彼は悲劇的な形で自己を、確固たる自己をとうとう手に入れたのだ。
 

「もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないか、自分自身に告白してください。何よりもまず、あなたの最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい。私は書かなければならないかと。」

 彼の詩はうまかった、けれど何か足りない、と同僚は思い起こすわけだが、
 その足りなかった何かとは、まさにここでリルケが言ったことであろう。
 なにを言われる前にも既にぐらついている自信など、
 なにごとか批判的なことが述べられた途端崩壊し、
 詩作を止めるという結論へと容易に導かれただろう。
 だから自己防衛的に彼は、詩作への意志を喪わないために臆病であった。
 彼はリルケのいう、「書かずにはいられない根拠」をもっていたには違いない。
 けれども彼はそれを探り、掘り出し、確かにしていなかった。
 確かにしていれば、もう臆病の対象が消えてしまう。だから、それが救いであった。
 
 こうして彼はその追究をある瞬間悟った。李徴はやはりただならぬ人物であるだけに、
 家を捨ててだが静かな夜――孤独――を求めて自然奥深くへと入っていった。


「あなたの生涯は、どんなに無関係に無意味に見える寸分に至るまで、すべてこの衝迫の表徴となり、照明とならなければなりません。それから今度は自然に近づいてください。 ・・・・・・・」

 だが彼は求めてばかりいた。その衝動の意味をわかりもしないのに求め、
 そこにあったはずの孤独を追い求め、
 そこ=とおくにはるはずの自然より近くの自然を追い求め、
 静かな夜、問うということはどういうことなのか、彼はそれを考えられなかった。
 そして彼はとうとう龍を喰らうことができなかった。
 龍は義務や使命であった、
 しかし、呑みこむことでそれは欲せられる使命、
 つまり秩序=要請となるのであった。
 彼は恐らく、欲するがまま、徒に詩作をつづけたのだろう。
 毎晩毎晩、問う事を置き去りにして。

 血反吐をはいてかくというのはよく言われる。
 が、しかし吐くのは、書いている時ではない。
 それは書かれる前、答える瞬間にはかれる血反吐に外らない。
 血反吐とは答えなのだ。
 書かねばならないことを痛みとして身体に刻みこむのだ。


散文(批評随筆小説等) リルケから若き中島敦への手紙 Copyright すみたに 2012-11-07 04:44:44
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