【批評祭参加作品】いるかのようにかわいそうなわたし
佐々宝砂

「いるかのすいとう」船乗りさん
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 この奇妙にやさしい言葉づかいの詩について書くとき、がちがちした批評っぽいこむずかしい言葉は似合わないと思います。だからいつもの佐々宝砂テイストとはちょっと口調をかえて書いてみるつもりです。

 もっともこの詩、奇妙にやさしい言葉づかいの詩だからといって、内容が甘ったるいわけではありません。内容がやさしいわけでもありません。言葉づかいがやさしいだけです。それはこの詩を読んだひとにはおわかりだと思います。やさしいけれどやさしくないこの詩は、字義通りの意味で、ピュアなメルヘンではないでしょうか。私は、「ピュア」という言葉をごくごくたまにしかつかいません。たぶん、年に一回、使うか使わないかです。

 「メルヘン」という言葉なら、半年に一度くらい使うかもしれません。もっと使いたいのですが、なるべく使わないことにしています。なぜなら、誤解を招きやすい言葉だからです。本来、メルヘン(märchen)は、童話、主として昔話を意味します。代表的なものはドイツのグリム童話、日本では「赤い蝋燭と人魚」の小川未明や「泣いたあかおに」の浜田広介がメルヘン作家と言えるでしょう。現代日本にもメルヘンを書く作家はいますが、戦前の古い作品がよりメルヘンらしいような気がします。新しい作品の多くは、古いメルヘンに特徴的な残酷さや不条理さを欠いています。メルヘンは子ども向きの砂糖菓子ではありません。苦み辛み渋み、あるいは猛毒さえも持っています。

 「赤い蝋燭と人魚」は有名な作品ですから、あまり説明を必要としないと思いますが、ごく簡単に説明しておきましょう。北の海辺の村で、人魚の赤子を救ったおじいさんとおばあさんは、やがて成長した人魚に蝋燭の絵を描かせます。人魚が絵を描いた蝋燭は不思議な力を持っていて、その蝋燭を灯していると海の害から身を守ることができたので、たくさん売れました。けれども、おじいさんとおばあさんは、金に目がくらんで人魚を見世物として売り飛ばしてしまいます。その後、人魚の蝋燭はかえって海の害をひきよせるようになり、海辺の小さな村も「滅くなってしまいました」の一言で片づけられてこのうらさびしいメルヘンはおわります。ランダル・ジャレルの「陸にあがった人魚のはなし」に登場するほのぼのと親しみやすい人魚とくらべて、小川未明の人魚のなんと昏いことでしょうか。

 「いるかのすいとう」は「赤い蝋燭と人魚」に較べると明るい印象の作品です。しかし、あかるく口当たりがよいにも関わらず、非常に残酷で不条理な作品です。「この世界に陸はいらない」「ひかりもいらない」と言いながら、いるかの住む場所は「この陸」です。「この陸」には「ひかり」があふれています。そして「ひかり」とは「いたさ」です。海のなかに住むいるかが、なぜ陸に住まねばならないのか、説明はありません。この残酷さ不条理さはメルヘン的です。通常よい意味を持つ「ひかり」が、なぜ「いたさ」につながるかの説明もありません。普通の読み方では、なぜかわかりません。しかしメルヘンの文脈でなら多少わかります。「ひかり」を受ける特権的な存在は、同時に「いたさ」を受けなければなりません。メルヘンの世界ではそういうきまりです。

 いるかという生き物には、さまざまな既成のイメージがつきまといます。賢くて、かわいくて、透き通った青く美しい海に泳ぎ、ときに残酷に殺される受難者、そうしたものがいるかのイメージであるように思います。人魚のイメージも若干かさなります。だいたい、いるかなんて大嫌いだ!という人はあんまりいません。たいていの日本人は、いるかが好きです。だからこそ、いるかについて書くのはたいへんです。ヘタに書くと、環境保護団体のキャッチコピーめいた陳腐なものにもなりかねません。

 この詩がどうにか陳腐さから逃れているのは、詩の人称代名詞が「きみ」だからです。詩の主人公は、いるかであると同時に、読者である「きみ」です。だから、「ねえ、いるか」という一風かわった呼びかけは、そのまままっすぐ読者に届きます。どうしようもない気分だったり、かわいていたり、いたかったり、なみだがあふれていたりする、そんな読者のもとに届きます。そして読者は、「いるかのようにかわいそうなわたし」を思い、なみだしたり感動したりします。つまりこの作品は、読者の自己愛を刺激して、いい気分にさせる、酔わせるのです。作者の意図はどうあれ、そのような効果を持ちます。読者を酔わせるのはむずかしいことです。やさしい言葉をつかって、かつ残酷でありながら読者を酔わせるなんて、ほんとうにむずかしい芸当です。

 私は、「いるかのすいとう」が優れた作品であると思います。この詩でとりわけすばらしいと思うのは、あかるい水のイメージにみちた詩文のなか、「焼き付ける」という言葉が強く迫ってくることです。この「焼き付ける」という言葉があるからこそ、「ひかり」が「いたさ」に直結して感じられます。

 私は、いるかの次の姿を見たいと思います。見世物として売り飛ばされた小川未明の人魚は、なにもできないかよわい存在であるようにみえて、実は恐ろしい存在です。海辺の小さな村を、自分を育ててくれたおじいさんおばあさんを、人魚は呪って滅ぼしてしまいます。本来住むべき海を出て陸に住むことになったいるかは、たった一回しか使えない「すいとう」を、いつかはからにしてしまうでしょう。なみだもいつかは枯れ果ててしまうでしょう。そのときいるかはどうするのでしょうか。

 それは、きっと、この詩とは全く違うおはなしになるのでしょう。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】いるかのようにかわいそうなわたし Copyright 佐々宝砂 2004-12-16 04:06:48
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