作品における構造概念の詐術についてのメモ
るか
作品における構造概念の詐術について
一、多くの名作とされる詩作品に、さしたる構造はない。
一、構造とは色々な意味で、共有されうる型であるが、それは独自性を消失させる。
一、多くの作家について、いわゆる「構造」を思考した形跡はない。
一、構造主義は本来的に、作家が提唱したものではない。理論家、批評家の道具である。
一、文学の衰退と構造的思考の浸透は、歴史的に、軌を一にしている。
一、構造は一つの効果要因に過ぎない。それを過剰に重視するならば、構造主義というイデオロギーであるが、そのイデオロギー効果を歴史的、社会的、文学史的に検証さるべきである。
一、インターテクスチュアリティは、創造性の否定ではない。そこには作家固有の組み合わせや変換の方法が存在している。文学はパズルでもチェスでもない。あえていうなら、参加者が死亡しうるような異種格闘技戦である。共有さるべきルールそのものが、不可視である。
一、レヴィストロースにとっての、神話に対する科学の関係が、R.バルトにとっての、作品と科学の関係であるが、人も作品も、科学のために営まれるものではない。神話学による先住民の知的収奪と、西欧文明の閉塞をこそ問われたい。