詩を書くということ
三田九郎
「趣味は何ですか?」と訊かれて、「詩を書くこと」と答えるのは難しい。なんだかものすごく恥ずかしいし、そもそもたぶん、詩を書くことは趣味なんかじゃないと思っているからだと思う、心のどこかで。
詩を書くというのは、例えるなら自分の生命そのものと斬り合うようなとても切実な行為で(ちょっと言いすぎかな)、そこには「趣味」という言葉が持つ「好きなこと」「楽しいこと」というニュアンスは、少なくとも僕の場合、あまり入り込んでいない。
悲しい、と感じる。でも「悲しい」と誰かに伝えることは、ほぼない。皆無ではないかもしれない。恋人とか、本当に親しい人になら、言うこともあるかもしれない。でも、自分が感じている悲しみは、「悲しい」という言葉で表現されるものとは、かなり違う。だから、「悲しい」と言ってみたところで何も伝わった感じはしないし、実際ほとんど何も伝わらないだろうと思う。
そういうとき、僕は自分の悲しみがいったいどういうものなのか、行けるところまで接近し、突き止めたいと思う。正確に書き残したいと思う。―詩を書くということは、そういうふうに、自分の精神に限りなく接近していこうという探検であり、自分の精神をできうる限り正確に表現してやろうという挑戦である。
探検や挑戦には、苦しみがつきものだ。苦しいことの連続と言っても言い過ぎではないかもしれない。
ただ、確かに、そういうことが「好き」ではある。探検し、挑戦し、最終的にかたちにしようと格闘しているときは「楽しい」ことも確かだ。だからやっぱり、一応趣味ではあるのだろう。でも簡単には人には言えない。
(追記)
この探検、挑戦、格闘がうまくいくことはほとんどない。永遠にありえないのかもしれないとさえ思う。でも、探検し、挑戦し、格闘しているというそのこと自体が「好き」で「楽しい」のだ。
できあがった詩の出来がどうか、はほとんど問題ではない。詩の喜びは、詩を作り上げるまでの精神の揺らぎ、その揺らぎを感じながら書いている、まさにそのときに最も深く感じられるものなのだ。
詩作品それ自体にそれほど意味があるわけではない、と思っている。もちろん、誰かに何かが伝わればうれしいのは確かだけれど。