感性(なんだかうまく まとまってません)
Tシャツ
僕は高校生の頃常習的な遅刻魔だった。遅刻をすると気持ちがいい。朝のしまった空気の中、誰もいない通学路、僕一人で歩くと何もかもが新鮮に思えた。休み時間や自習の時間は気の合う仲間と学校を抜け出し、子供のような遊びばっかりしていた。でも誰にも迷惑をかけない。それが僕達の鉄則だった。
倫理の時間、先生が教室に入ってくるとみんな静かになる。神はふさふさ、髭はごわっと伸びていて、腕は太く胸も厚い。何よりでかい。いやそう見えたのかもしれない。きっと神話に出てくるゼウスだとかそんな感じの神様はこんな容貌をしているんだろうって僕は思う。だから、みんな何も喋らない。先生は哲学の話をするけど、僕にはちんぷんかんぷん。難しい言葉が多過ぎる。イデアがなんとかとか、根源がどうとか。りんごは在るからりんごではなくて…とか、わけが分からない。でも、時折どうでもいい話をする。それはとても面白い。天皇の悪口だとか、日本のメディアの悪口だとか、外国の新聞を見て自分の国がどう見られているか見ろ!って言う。でも、僕は英語の成績は赤点。そいつぁ無理な話だぜ!って心の中で思う。そんなパワフルな先生があるときしんみりとこんな話をしだした。
私は昔、知的障害者の為の施設で勉強をしていたことがある。子供達を夕方校庭で遊ばせていて、そろそろ子供達を中に入れようしたときに、一人の生徒が蛇口の前でずっとうずくまっているのを見つけた。私は近づいていき何をしているのかをたずねると、彼は綺麗といった。私は蛇口から流れ落ちる水の向こうに、沈んでいく夕陽を見た。水は夕陽を背にうけ輝いていた。私は感動した。 確かそう話していた。僕は今思うと、先生はきっとその光景に感動したのではなくて、彼の純粋な感性に感動したのだと思う。そしてあんなにしんみりと語ったのは、自分にはその純粋な感性がだんだんと喪失されてしまっいるのが分かっていたからなんじゃないかと思う。純粋性って言うのかな。ふとその先生のことを思い出して書いてみた。朝の空気が気持ちいいとか、風が気持ちいとか、土の匂いがとかを感じる感性ではなく。彼が感じていた感性はもっと純粋なものなのだと思う。おそらく、僕が簡単に感じることのできない、心の奥底の感性。うまく言葉では表現できないけど、僕は蛇口にただずみ、沈む夕陽を何時間も眺めていられる純粋な感性はもっていないと思う。きっと悲しいことだと思う。昔は誰でも持っていたんじゃないかって思う。
きっとちょこちょこ書き直しますよ。