近代的詩性についての備忘
るか

 私にとって、かけがえのない言葉との交わりの記憶をある程度なりとも感情を伴った心象として想起したいとふと思う折に、参照されるのは、中上健次であったり、ジル・ドウルーズだったりするのだが、その辺りのことをこの時間に思いつくままに備忘的に書きつけておきたく思った。

この二人は当然のことながら国籍も文化的コンテキストも活動のメインフィールドも、世代も全く異なるのだが、私にとって何かよく似通った手触りを感じさせるのは、たんにその読書体験が並行して行われていたという事情以上に、蓮實重彦という批評家の存在が大きいのかも知れないし、それ以上に、彼らのあいだに何か共通する資質のようなものもまた、あったのかも知れない。高校生くらいの頃まではよく文学作品に触れていたのだが、当時の私の認識では、いわば、萩原朔太郎において頂点を示したような近代詩の流れは第二次世界大戦で終焉した、そこで既に詩は不可能になり、何か別の形で詩的なものを追究するしかなくなったのだという結論に達していて、その感慨は現在も変わっていない。その背景には、詩人のある種、存在論的な極北と考えられてきたしその頃自分もそんなふうに史的に位置づけていた、アルチュール・ランボーについての意識が確かに横たわっていたことを付言するならば、あるいはもう少しその頃の自分の思いを分かって頂けるものなのかも知れない。しかし、このランボーがまた難物なのであって、翻訳を通しては私はついにその作品が秘めている核心的な感動を汲み取ることはできなかったし、微細な語感の差異から言葉の詩的機能を嗅ぎ取ることが可能なほどに、私はフランス語をわがものとはなしえていない。ただ作品から平板な意味を汲むことができるだけであるが、このランボーの時代もある意味では第二次世界大戦という同時期に終焉したと言っていいように思う。

さて、戦後のある種のフレームにおける詩的追究が詩の外部でこそ可能になったし、そこでしか命脈を保てない、というイシューに話を戻すと、そこで私が出会った近代詩の戦後的形態が、フランス戦中戦後派による、いわゆる現代思想であり、映画だった。ドウルーズやデリダの思考はポエテイックに感じられていたし、実際、詩について彼らは相当、重要なモチーフとして扱っていたと考えても、そう大きな誤解とはいえまい。私は、彼らはその青年期におそらくランボーを読み、詩的なものの終焉をリアルタイムで感じ取り、それを思考によって受け継ぐというモチーフを彼らが世代的な共通了解として有していたのではなかろうかと思う。それは、芸術を党派性との関連のなかで、いかに救い出し確保するかという問題圏とも繋がってはいるのだが。エクリチュール概念もまたここに交差する。

そしてそのような、ジャンルとしての詩の外部において、近代的ポエジーを引き継いで言語表現を実現した作家として、たとえば中上健次がいたのではないかな、そんなふうに感じているのである。


散文(批評随筆小説等) 近代的詩性についての備忘 Copyright るか 2012-08-29 20:37:42
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