夜でも どうでもいい話
佐々宝砂

私は生活実感のこもったエッセイを書くのが苦手だ。書けないことはないと思う。苦手というより書きたくないんだと思う。いや、書きたくないんじゃなくて、書いたらアカンという気がしているんだな、うん、自制しているのだ。生活実感のこもったエッセイだなんて、いんやもっと正しく言おう、自分史なんて、年食ったら書けばいーじゃん、んなもん若いうちに書くもんとちゃう! ということは、私、自分を多少は若いと思っているらしい(微苦笑)。ま、書きたい人は書きたいことを書けばえーんよ。私が勝手に自分を制しているだけなんだから。私は今後、かなり長生きする予定なので(予定は未定だけど)、今のうちから自分史なんぞ書いて、年食ってから書くものがなくなっちゃうと困る。

私は長く書き続けるつもりなのだ。

モーレンカンプふゆこ(カナダ在住の歌人)が、以前なんかの新聞に書いていた。詩を書いています、と言うと、私も若い頃書いてましたよと返されることが多い、でも、若い頃で終わるのではなくて大人になっても書き続けていることが大事だと思う、というようなことを。若い頃は、たいていの人が詩みたいなものを書く。珍しい話じゃない。とりたてて面白い話でもない。

持続して詩を書き続けるとなると、けっこう気力がいる。書けない時期をいくつも通りすぎなきゃいけない。自分の作風が自分の好みでない方向に動いてゆくときは、それがなぜなのか考えなきゃならない。軌道修正が無駄だとわかったり、もしかしたら私にとって正しい方向なのだとわかったりしたら、好みでない方角にも進んでいかなきゃならない。それでも進めるのならまだましで、書いても書いても同じところに停滞していて、進むべき方角がさっぱりわからないとき、私には、そんなときがいちばんつらい。停まってるくらいなら、下降したほうがマシだと思う。冗談ではなく真面目な話だ。

私はいま、超弩級スランプなのに毎日ひいこら何かを書いている。進んでる気はぜんぜんしないけど、なんとなく下降している気がする(笑)。しかしまだ下降が足りない。飛ぶような気分で詩を書けるとしたらそれがなにより幸せ(否、快感)だけれど、飛びっぱなしはいけない。いや飛びっぱなしでOKという人もいるだろうし、そういう人の飛翔を阻むつもりはないけれど、少なくとも私は、時折どどーんと地の底の底まで落ちなきゃならないのだ。憂鬱になるという意味ではなくて、落ちなくてはならない。自分の中に穴を掘って、掘って、掘って、痛いなーと思ったら、そーっと穴を覗く。そこにはいろんなものがある。主として、いやになるようなものがある。でもパンドラの函の底にも希望はあったわけで、いやぁな穴の中にもなにか光るものはある。私はそれを拾って空に駆け上がる。駆け上がることができるときには。

二十年間、詩(のようなもの)を書いてきて、飛べたなあと思えた瞬間はわずかに三回。その三回とも、飛ぶ前にずるずると落ちていた。飛んだあとは、どすーんと落っこちた。飛ぶのは一瞬だ。かなしいくらいに瞬間的だ。でも、それでいいんだと思う。そんなにしょっちゅういいものが書けるわけがない。私は天才じゃない。こつこつ地道な努力型のヒト(?)なのだ。飛ぶことが一度でもできたなら、もう一度できるだろうと、しつこく努力を重ねる。前の状態に戻るのは不可能だから、いろんな努力をする。前とは違う手法を試したり、読んだことのない分野の本を読んでみたり、昔すきだったものを再読してみたり、映画をみたりマンガを読んだり美術館に行ったり、あるいはなんにも考えないつもりで山に入ってみたり(どうでもいいけど、山に入ると私はやたらに考え込んでしまう、結局、何も考えないで、なんて無理なのだ)。

今は飛ぶ時期ではない。飛べないときには、飛ばない。無理はしない。自分史のなかに特筆すべきトピックがあるとしても、いまこの瞬間にその特筆すべき出来事が起きたとしても、私はそのトピックを書いたりしない。それは書けるときに書く。書きたくなったら書く。あとで書く。と言っておいて、私は案外早い時期にそのトピックを書くかもしれない。あるいは一生書かないかもしれない。なんにせよ、私は自分の生の生活を書くことが嫌いだから、ものすごーい体験をしても生のままでは書かないだろう。

ちゃんと洗って、アクと臭みを取り除き、包丁いれて、下味つけて、火を通して、もっかい味付けして、なんならもいちど火をいれて、綺麗に盛りつけて、「これが私の人生です」、さあ、どうぞ。


散文(批評随筆小説等) 夜でも どうでもいい話 Copyright 佐々宝砂 2004-12-11 02:48:21
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