ビート(スピード、そして静かな波)
ホロウ・シカエルボク




衝動は次第に、静かな波のようなものへとそのかたちを変えてゆく、無くなるのではない、そういうものへとかたちを変えるのだ―それがかたちを変えた途端に、多くの人間が無くなったと感じてしまう、失われてしまって、もう二度と戻っては来ないのだと―だけど忘れるな、それはちゃんとそこにある、ただ、静かな波のようなものにかたちを変えただけのことだ、それを無くしたなどと思ってはいけない、それはかたちを変えただけでそこにきちんと在る―情熱の種類は熱だけではない、きちんと目を見開くんだ、きちんと目を見開くんだぜ、いままでと同じやり方をしていてはいけない、熱ばかりをとらえていたやり方だけじゃすぐに限界がやってくるぜ―情熱の在り方は変わる、それは熱で表現するためのものではなくなる、もっと深い場所、いままでよりももっと深い場所に糸を垂らして、そこに絡みついたものを出来る限り注意深く、出来るならひとつ残らず、すべてを拾い上げるつもりで読みとらなければならない、出来る限りたくさんの言葉、出来る限りたくさんの表現を使って、たったひとつのことについて語り続けなければならない、つまりそれはもう、わずかな言葉で端的に表現することの出来る題材であってはいけないということだ、フォーカスの無い写真のようなものだ、五感で感じるすべてのものを、それが頭の中である種の傾向へと変換されてゆくさまを、そしてその結果を、これはこれあれはあれと分類したりすることをせずに、そのままで記さなければならない、そして出来ればそれは、瞬間という単位での出来事でなくてはならない―すべての芸術は瞬間を永遠に凍結しようとする試みのようなものだと考えなければならない、それは無意識下の出来事の記録だと言えるだろう―そんなところまで突っ込んでいく必要はないと思うやつもいるかもしれない、だけど、いいかい、俺が思うに、頭と学習によって描かれるものには、絶対に生の領域をうたうことなど出来ない―肉体のビートを正確に書き記すことだけでしか、それは成し得ることは出来ない―静かな、波のような情熱を確実にとらえろ、それが語りかけてくるものをひとつ残らず記録するんだ、いいかい、もしもそれを奇跡的にすべて書き記すことが出来たとしても、それは本当の意味でのすべてを書き記したことにはならない、なぜならばそれは、その時そうであったというすべてでしかないからだ、わかるかい、フォーカスは限定されてはならない、そして―時も限定されてはならない―とらえるためには、とらえられてはならない、あるものを、あるがままに描かなければならない、すべては―それが本当に余すところないすべてであったとしても―次の瞬間にはそれと同じだけ、あるいはそれ以上のすべてが、指先にペンをくっつけてる人間のもとには押し寄せてくる、それはまるで波のようにね―あとからあとからやってきて、どこかへ去っていく、それがどれくらいあるのかなんて、誰にもわかることはない―生きている限りそれはやってくる、やってきては去り続ける、言葉じゃない、ビートでとらえろ、名前をつける前に目の前の紙に書きつけてしまえ、きっとそれは取り上げられたばかりの胎児のように、生々しく輝いて見せるはずだ。




自由詩 ビート(スピード、そして静かな波) Copyright ホロウ・シカエルボク 2012-07-16 00:08:08
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