いま私は激烈に機嫌が悪いのだが、これはパキシル切れのせいだと思われる。薬を切らしたのは私の責任であって、他の誰のせいでもない、などと書いてる場合ではなく、書くべきものはきっちり書かねばならんのだ。ううう面倒くさいぜ。
まずは「松島やああ松島や松島や」について簡潔に。この句はなぜか一般には松尾芭蕉のものとされているが、実際には田原坊なる狂歌師が作った「松嶋やさてまつしまや松嶋や」が変化したかたちで人口に膾炙したものだという。つまり「松嶋やさてまつしまや松嶋や」には作者がいても、「松島やああ松島や松島や」には、実際の名前ある作者というものはいないのだ。詠み人知らず、アノマニス、なのである。わらべ歌や諺、あるいは梁塵秘抄や閑吟集に採取された作者不明の当時の流行歌のようなものだ。日本語を使う人々の共有財産だと言ってもよい。ささやかで、かなりバカな財産ではあるけれど。
この句は、単に有名なだけであって、いい句でない、というか、いい句かもしれないが俳句でない。季語が入ってないし、切れ(この場合「や」)が三つもある。なんてことをいちいち指摘するのもアホらしい。句には間違いないが、大バカ句なのである。何を言いたい句なのかさっぱりわからないが、覚えやすい。覚えやすくて意味がないゆえに、誰でも使える。やたら使える。「松島」を他のものに置き換えれば、何にでも使える。元句の「さて」は、妙に文語めいて意味深げだが、ちまたに伝わる「ああ」の方は「さて」以上に意味がないのでバカさ加減に拍車がかかる。ここまでバカなのはすばらしい。バカも極めればご立派というひとつの典型だと思う。
で、次に猫語について語らねばならない。うううむ面倒だなあ。と思ってしまうくらい猫語には歴史があり、今さら「ああ松島や」を「にゃあ松島にゃ」に換えたところで、とても猫語のパイオニアとは言えない。なにしろウェブ上には、すでに猫語変換cgi(
http://www.st.rim.or.jp/~hyuki/mp/05/neko1.cgi)が存在するほどなのだ。「にゃ」を使えば猫語だというならば、『無敵看板娘』(週刊少年チャンピオン連載中)の勘九郎なんか猫語使いまくりだ。そんなんでパイオニアだったら、名古屋人はネイティヴにパイオニアじゃねーか(決して名古屋人をバカにしているわけではない。静岡県民の一部もにゃあにゃあ言う。我が静岡も猫語使いの土地なのである)。
では、猫語のパイオニアとは何者か? 昨日から必死に調べていたのだが、日本におけるパイオニアはわからなかった。海外におけるパイオニアは、調べなくてもわかる。『猫語の教科書』の作者ポール・ギャリコだ。まあこの本は「猫のために書かれた猫が快適な生活を送るために人間をしつける方法」を人間が解読してしまった!というお話であって、本当に猫語の教科書なわけではない。とはいえ、猫語というものの存在を明かした初期の文献であることは間違いない。猫は猫語を使うのである。そして猫は人間の想像以上にお喋りであって、だから雄猫ムルは自分の生涯を誰かさんの伝記の裏に綴ってしまうし、漱石の猫も名前がないままにいろいろと語ってしまうのだ。だが雄猫ムルも吾輩も、猫語を使って喋っているわけではない。これらの物語において、猫は、猫語ではなく人間の言葉で喋っている。しょせん、猫耳猫しっぽのない時代の文献に過ぎないのだ。
日本のカルチャーまたはサブカルチャーの世界に猫語が登場したのは1960年代後半ではないかと思うが、推測の域を出ない(というかてきとーに書いてみただけだったり)。1970年代にははっきりとした猫語使いが二人登場する。一人は柳瀬尚紀。この人は半猫人を自称する猫語使いであり、あの『フィネガンズ・ウェイク』を翻訳した人なのだから猫語翻訳などたやすくこなすに違いあるまい。世紀が変わってもなお半猫人ぶりは健在で、朝日新聞に「猫舌三昧」というタイトルからして猫っぽいエッセイを連載していた。もう一人は谷山浩子。1976年に三回目のデビューを果たした谷山浩子は、猫森に出入りしている猫語使いであり、人間よりも猫に近い。その筋の情報によれば、彼女は21世紀に入ってもまだ猫の集会を開いているらしい。
この二人のパイオニアの力によって(この二人の力のためだけではないんだけどなんかこう書きたいのよん)、1980年代の日本では猫語文化というべきものが花開いた。オタクなるものがまだ世間一般に知られていなかったこの時代、オタク的なものをぎっちり充満させていたマンガ『うる星やつら』(高橋留美子、少年サンデー掲載)のラムちゃん(ちゃんつけるのやめようと思ったけどどうしてもつけちまうのはなぜだ!)は、格好からして猫に近いだけあって、猫語ではないものの猫語に近い言語を使う。「〜だっちゃ」というあの独特のしゃべりがそうだ。この、特定の登場人物の語尾に特定の音をつける手法は、いまだにたくさんのマンガに使われている。その他いちいちあげてったら、とてもキリがない。谷山浩子とのつながりが深いマンガ、矢野健太郎作『ネコじゃないモン!』(ヤングジャンプ掲載)あたりが代表か。
オタク的なものが徐々に認知され、猫耳も猫しっぽも単なる変態プレイの一種となった現在、猫語もすでに単なる変態プレイのひとつと化している。猫語のでてくる小説・映画・マンガのたぐいは、いちいち調べる気にはならないほどたくさんある。いまさら猫語ねえ、昔はそんなもの使った覚えがあるけど(遠い目)……ってなもんだ。猫語で詩・短歌・俳句を書いた人も、おそらくいるだろうと思う。推測だが、絶対いると思う。猫語オンリーの詩集・歌集・句集を作ったひとは、まだいないかもしれない。しかしそのうち出てくるだろう。ま、私はめんどくさいので、猫語詩歌句集をつくる予定はない。
で、ああ、やっと語りたいことを語れる、パクリの問題だ。パクリとは何か。この手の言葉を辞書で調べてもしかたないので、ウェブで調べてみる。はてなダイアリーによれば、パクリとは「1.他人のものをこっそりと泥棒すること。 2.逮捕のこと。 3.他人・他社・他国の製品・作品を真似すること。」なのだそうだ。詩の世界におけるパクリは1または3にあたるだろう。これいいな♪とおもったフレーズを好きなフレーズスレに投稿してもおそらく著作権侵害にはあたらないが、それを自分の詩だと言って世間様に発表すると著作権侵害にあたり、謝罪の記者会見が必要になる。2の逮捕につながりそうな行為が1なわけだ。しかし3となると話が微妙だ。こと文学に関しては。どこからどこまで真似で、どこからどこまでがオリジナルか、誰に判定できるだろう。少なくとも、私には、できない。言葉とはもともとオリジナルなものではない。真実オリジナルな言葉なんか、誰にも伝わらないではないか。オリジナルではなく、ある程度の人数が共有するものであればこそ、言葉は相手に伝わるのだ。
人の考え方はさまざまだから、自分の作品を「これはオリジナルなのよっ」と叫ぶ人がいても私はちっとも気にしない。だが私は断言する。私の作品は私のオリジナルではない。私はものを書き始めた当初から書き替え作家である。私が作品として書くものには、たいてい私が書いたのではない元のバージョンがある。私は引用のカタマリだ。それがいけないことだと、私はちっとも思わない。なぜって私は、私のオリジナリティーを主張しない。私が何をどこから引用してきたかなんて、調べればすぐにわかる。私自身が引用元を明記することも珍しくはない。私は「こっそり泥棒」なんてことはしないのだ。正々堂々と、「いただいてきました」と書く。だって実際にそうなんだからね。ま、誰に言葉を教わったかとか、どこでその言葉を覚えたかとか、そういう細かい話になると私本人も覚えてないしいちいち書くと面倒なので書かないけれど、とにかく私の言葉はぜーんぶ借り物である。私は借り物である言葉を、私の好きに配置する。その「配置」の加減が私のオリジナリティなのであり、実はこの考え方も私のオリジナルではなく、ベンヤミンが主張した「星座」の概念に酷似している。私の詩に「星座」という言葉がでてきたら、お空の星座ではなくてこっちの「星座」であることが多い、しかしそれはここでは余分な話。
私にとって、世界のすべてはパクリである。あるいは、世界のすべては(パクリと呼ばれるものも含めて)オリジナルである。
と、ここまで書いてこの文章を終わりにしてもいいのだが、ホルへ・ルイス・ボルヘスのある小説について書いておきたい。ボルヘスの代表的短編集『伝奇集』に収録された「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」という小説を御存じだろうか? 非常にとんでもない小説である。つーか小説なのかどうかすら私にはよくわからない。まあ短編集の中に入ってるのだから小説だろうということにしておいて、この小説における『ドン・キホーテ』とは、セルバンテスの書いた有名な『ドン・キホーテ』ではない。ピエール・メナールなる20世紀の作家がセルバンテスになりきることで、元の『ドン・キホーテ』と一字一句同じ作品を作ろうとした、という設定の元で書かれた(しかし書き終わらなかった)小説のことなのである。ボルヘスのこの作品は、その、一字一句異ならないはずの2つの作品、ピエール・メナール版『ドン・キホーテ』と、セルバンテス版『ドン・キホーテ』を比較検討してみせた論文、という形式の小説なのであった。
作者名以外全く違わない2つのテキスト。しかしそれらテキストには異なる時代背景があり、異なる文化があり、異なる思惑がある。それを読み取ることは決して不可能ではない。かなり無理矢理だが、不可能ではない。批評家というのは、そんな無理矢理なことを日常的にしているバカのことを指すのだ。
意味わかる? わかんなかったら私のせいじゃないや、ボルヘスのせいだい。