読書について
深水遊脚

 「知識の借り物競争」という言葉がずっと頭の片隅から離れない。

 実体験を重視して読書で得た知識を軽んじる言葉は、一見もっともらしく聞こえる。しかし読書だって実体験の一部であり、読書によって起こる内面の変化は、一人の人間の根っこの部分を形成する。内面の変化のなかには、眠っていた過去の記憶もあるかもしれない。普段は抑えていた不安や悲しみ、あるいは逆に本当はこうしたい、こうありたいという願望もあるかもしれない。迷ったときの道しるべとなるような言葉にも出会えるかもしれない。それらを否定することは、人間が考えること、感じることを否定することにもつながる。

 そんな考えを持っているので、下に紹介するショーペンハウエルの言葉が嫌いなのだ。

「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持になるのも、そのためである。」(『読書について』ショウペンハウエル著 岩波文庫 P127-128)

いや、嫌いなのはショーペンハウエルではなく、最初の一文のみを大雑把に振り回す人間かもしれない。ショーペンハウエルは、考えることや、感じることを伴わない多読を否定しているのだから。このことは引用部分のあとでしっかり述べられている。著作者としての能力と読書との関係についてや、文字にできる物事に限界があることについて述べた部分も、読書という行為を考えるうえで大いに刺激になる。

 所詮は間接的な体験に過ぎないし、ひとつの刺激に過ぎない。そしてほかの間接的な体験や刺激との優劣はない。それだけでは限界があるけれど、間接的な体験や刺激がもたらす変化は小さい場合も大きい場合もある。読書について私はこのように考えている。読書という営みが「知識の借り物競争」に留まっている限りは、それは娯楽であり、ほかの娯楽と変わるところはない。読書という行為がその人の内面にいかなる変化をもたらしているかについて、「知識の借り物競争」の観客には、誰一人例外なく、それを見極めることはできない。


散文(批評随筆小説等) 読書について Copyright 深水遊脚 2012-05-24 13:34:01
notebook Home