ああ人生に余裕がほしい
佐々宝砂

端的に言って金と暇がない。頭にくるほどない。ないのだが詩を読む。寸暇を惜しんで読む。詩も書かずに詩を読む。最近ほんとにほとんど詩を書いてない。とゆーか、書けない。ここに投稿してる私の詩は古いのばっかだ(すみません)。詩を書くだけの暇がない。余裕がない。

今現在、現代詩フォーラムの詩は半分くらいしか読んでないが、某PJライブラリ(某じゃないじゃん)に投稿された詩はとにかく全部読んでる。半年くらい前までは、某詩人ギルド(やっぱ某じゃないじゃん)の新着詩も全部読んでた。まじで全部読んでた。ほぼ頭がおかしくなるような所業だと言ってよろしい。そんなことないと思うなら、どっかの投稿サイト(現代詩フォーラムでもよろしい)の詩をすみからすみまで全部読んでみい。おのおのの詩の出来不出来とは無関係に、すっぱいものがこみあげてくるぞ。私は実際へんになったんで、パキシルにデパスを愛用のありさまだ。ま、それは詩を読んだせいじゃないかもしれないのでさておくとしてなんのためにそれほど詩を読むかというと、批評を書く、そのためなんだねえ不毛だよ。もともとはそんなじゃなかったはずなのだが、三年ほど前から私は、間違いなくなんらかの感想や批評を書くためにネット上の詩を読んできている。こんな態度が正しいとは、正直、自分でも思わない。ぜーったいになんか間違ってると思う。

かつて私は、疑いなく、詩を読むことが好きだった。今も・・・今も、嫌いではないと思う。思うけれども、好きなのかどうかわからない。

たいていの詩は、なにがしかのメッセージを読者である私に伝えようとする。しかし私はそのメッセージがつらいのだ。一個人が受け止めることのできるメッセージは、悲しいほど小さい。一個人に過ぎない私に、ネット上の詩が伝えようとするメッセージのすべては受け止められない。できるわけがない。物理的に不可能だし、仮に物理的に可能だとしても、受け止めたくないメッセージもあるし、受け止められないメッセージもあるし、いまさら受け止める必要性を感じないメッセージもある。私は小さい人間だ。私には限界がある。仕事で疲れたり気分が沈んだりしているときキャパを超えると、私はなにもかもにうんざりしてしまう。もうメッセージなんかいらないやどうでもいいや詩なんか金輪際読むもんかい!と思ってしまう。

しかしそれでも、やはり私は詩を読むのである。

私は、詩作より批評を求められることが多い。どうしてそうなのかわからないけど、世間は、私の詩より私の批評を必要としているらしい。必要とされるのは悪い気分ではない。だから私は批評を書こうとして詩を読む、批評を書くために読む。読みすぎてうんざりして、うんざりするのでろくな批評が書けなくて、詩も書けなくて、もうなにもかもいやだ、ああいやだ。頼むからもう休ませてくれお願いだ。とゆーことになる。しかしどうだろう、明日からなにひとつ批評を書かなくてよい詩も読まなくてよいといわれたら、いや、それどころか詩を読むことと批評を禁じられたら?

そのとき私はきっと詩を読んでしまい批評を書いてしまうのである。だって好きなひとの詩は読みたいしさ、そういう詩には感想書きたいもん。ああ、たまにはそういう根源的な欲求に基づいて批評を書きたい、誰か、私に読書と批評を禁じてくれないかなあ、ああああ、支離滅裂な結論だなあ、なにしろ私は疲れているのだ。ああ人生に余裕がほしい。というわけで、こんな愚痴を読んで下さったあなたのことが私は好きよ。たぶん。


散文(批評随筆小説等) ああ人生に余裕がほしい Copyright 佐々宝砂 2003-10-23 01:12:39
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