きみらの贖罪
HAL

ぼくらの時代には
いまにも千切れそうだけど
でも千切れない様に護ったものが
確かに存在していたしその大切さも知っていた

でもいまのきみたちを見てると
それすらないかのように見える
それで多分とてつもなく淋しいんだろう

メールでひとの絆は断たれている罠だと知らず
つねに新しいアプリはきみらを堕落させることに
気づかないままに時代は進化してると思い込み

互いに繋がっていることを
必死に確認している無様さを
ぼくらには哀れな姿としか想えてならない

ぼくらは嫌少なくともぼくは
その意味を充分に知りながら
注意深さを失わずこのサイトを利用している

でもきみらはすでに分断されているのに
本当は分かっているのに悪足掻きをする
でもそれはきみらが利用され育ててきたものだ

ひととひとの実は大切な繋がりや絆を
きみらは重いとかウザイとして殺してきた
その咎を受けるのは当たり前なんだよ 

そしてそれを求めるひとを
寄って集って苛めることまでしてきた
それに負け自殺したものには心も寄せない

きみらが歳月を重ねていくなかで
いつかきみらがきみらの過去を振り返ったとき
一体そこに何を見るのだろう

きみらが見るのは未必の故意で殺した心の屍ばかり
でもきみらはそれを為したものが
絶対にきみらだと想わないし感じない

そして世界はさらに荒廃していきぼくらはきみらの
背中を見て反面教師として生きてくるものだけに
きみらが滅ぼした世界の再生と更新を託すだろう

愚かなる者よ傷つくのを怖れるだけの者たちよ
愛は貰えるものだと信じる者たちよ
きみらは寄り添っていると云う錯誤にいる者たちよ

孤独は大勢の人間の間にあると
喝破した哲学者の言葉は分かるか

どうせ老いたる者の戯れ言と
鼻で笑ってまたメールを打ちつづければ好い
どこかの馬鹿が何かほざいているとシカとすれば好い

その山になく街にある孤独のなかを
誰からも手は差し出されず独りぼっちで死へと向かえ
それこそがきみらにできる贖罪なのだから






※作者より
『孤独は大勢の人間にある』との一節は、正確には『孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の間にある。』と言われた京都哲学派の哲学者である三木清氏の言葉を許諾なく割愛し借用したものです。


自由詩 きみらの贖罪 Copyright HAL 2012-04-01 15:03:39
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