僕らの昨日の可能性
中山 マキ



“昨日は確かにあった僕の可能性が
今日にはなくなってしまっているのは何故か“
そんな疑問に辿りついた時、僕は30を超えていた
おそらく優に超えている楽観は
今や脅威の何ものでもないことに
走っても間に合わない最終電車を見送る頃に
ようやく辿り着くのかもしれない

そもそも褪せて行くのは夕焼けだけではない
だからといって思い出でもない訳だけれど
人は何を感じて悲しくなるのかという哲学と
センチメンタルな気持ちに浸るだけで満足して
納得することに慣れ過ぎてしまった事だけは素直に認めるよ

結局という言葉を多用しながら
否定から入ることで身を守る癖を君は軽蔑しているかな
先送りが好きな有名人の時代錯誤や団塊世代の子離れを
遠目で僕は懐かしいと錯覚するのと同時に
何者にもなれない今でさえ懐かしいと錯覚していく

だからか1週間の大半が不確か過ぎるので笑ってしまう
さらに厳密に言うと1ヶ月の大半、1年のおおよそ
まるで毎日に訳があるようにと見せかけて
颯爽と改札を抜けても調度良い迎えはやっぱり来なくて
先を急がない明大前のプラットホームで苛ついている

それでも確かに何処かにあったと思われる、もしくはそう思いたい
僕の昨日の可能性は?と道行く人にすがりついても
それは失う時だけ僅かに存在を明らかにするので
繊細なほどに卑怯で 余りある程綺麗だから
時々充分なほどに実感すると、後悔は決まった格好で逃げて行く






自由詩 僕らの昨日の可能性 Copyright 中山 マキ 2012-02-22 13:49:25
notebook Home