美香
「Y」
ワンルームのドアをノックする音が聞こえた。
濡れた髪をタオルで拭いていた昌は、動作を止めて、反射的に壁の時計を見た。夜の十一時だった。
ドアスコープの向こう側に、白いフェイクファーを纏った見知らぬ女が立っている。
まるで、昌がそこにいるのがはっきりと見えているかのように、彼女はドアの外から真っ直ぐに視線を投げ返してきた。
栗色の長い髪。華奢な手足は、まるで少女のもののようだった。
関東地方は昨晩から寒波に見舞われている。
ドアの向こう側で、小さく飛び跳ねるように身体を揺らしながら白い息を吐いている女の様子に、なぜか痛ましさのようなものを感じた昌は、反射的にドアを開けてしまった。
彼女は「ありがとう」と嬌声を上げるように言い、ドアの内側に飛び込んできた。
「ねえ、知ってた?今夜はもの凄く寒いの」
昌の鼻先にぐっと顔を寄せて笑顔を作った後、ブーツを乱暴に脱ぎ捨てる。
「悪いけど、人違いじゃない?」
昌はようやく彼女に声を掛ける。「君のこと知らないし」
そんなことないよ、と彼女は言った。「私は、あなたのことを知っているもの。それより、ほら。これ、チョコレート!」
彼女は両手を真っ直ぐに伸ばして、赤い紙に包まれた小箱を昌に差し出す。
自身の行動に呆れながらも、昌は女からのプレゼントを受け取ってしまった。
「ねえ。本当に憶えてない?就活のとき、展示会場で見なかった?私のこと。私はずっとそこにいたんだけど」
俄には信じがたい話だった。
就活中の学生を集めた大規模なイベントの最中、人型ロボットのパビリオンで、彼女の姿を見た記憶がある。
「……ロボット?本当に?」
彼女はニヤリと笑い、頷く。
「ロボットとか言われるの、一番嫌なんだ」
美香、という名前だった。
パビリオンでの職務を放棄して、ここにやって来たらしい。
「バレンタインに男の人にチョコレートをあげるっていうのを、やってみたかったんだよね」
彼女はソファに腰掛け、はにかむような笑みを浮かべている。「あげるんだったら、あなただと、決めていたの」
「ありがとう」と昌は言う。「だけど、どうして俺なんだろうね」
「どうしてって……」
美香は戸惑った表情を浮かべる。
昌は、その表情に、なぜか魅力を覚えた。そして、なんとも言いようのない気分になった。
(この複雑な表情は、本当にロボットのものなのか)という思いがある。
「なんでだろう」と、呟くように美香が言った。
「本当に、私にも、よくわからないんだ。どうしてなんだろう」
「いいよ。別に悩まなくても」
「最近、本当によくわからないの。私は、今はあのパビリオンで働いていて、こういう不適切な行動をとらないようにプログラムが組まれているはずなのに、そういう風にはなっていないみたいだし」
そのとき昌は、まるで生身の女に対して抱くような好意が、自分の内側に沸き起こってきている事に、不意に気付いた。
結局昌はその晩、美香と一緒に寝た。
ベッドに入る前に、彼女は言った。
「本当は、抱いて欲しいの。あなたに。……もっとはっきり言うと、抱かれるために、来たの。そういうことって一体どういうものなのか、知りたくて。だけど、やっぱりやめる」
「やめるって?」
「あなたの隣で眠りたい。だけど、今日はそこまでってこと。あなたの彼女にも悪いし」
「彼女?どうして、そんなことを知っているんだ」
「だって、いるんでしょう」美香が上目遣いに昌を見て、言った。「知っているっていうか、勘で言っただけだけど」
「勘かあ……」と呟き、昌はすこし笑った。
「うん。たしかにいるよ。恋人。だけど、とりあえず、気にしなくてもいいんじゃないかな」
「それって、どういうこと。私が、ロボットだから?」
「いや。別にそういうわけじゃないけど」
美香が、語気を強めて昌に言う。
「産むことはできないけど、それ以外は同じだよ」
その言葉に、昌は妙な迫力を感じ、息を呑んだ。そして言った。
「悪かった。言い方に気を付けるよ」
美香は、昌の隣で寝息をたてている。
……男にチョコレートを贈るロボット。
白い息を吐くロボット。
ロボットと呼ばれることを嫌うロボット……。
昌は心の中で言葉を呟いていた。
「ねえ。うまく眠れないんでしょう」
暗闇の中、美香が昌に声を掛ける。「私が、人間じゃないからだよね」
「ちょっと違う」と昌は答えた。「美香が、どうしてもロボットに見えないからさ。……それにしても、どうして君は、白い息を吐くことができるんだろう」
「白い息?」
「訪ねてきたとき、ドアの外で寒そうにしてた。白い息を吐いてさ」
美香は小さなため息をつき、言葉を返す。「女の子のデリカシーっていうのを、全然分ってないんだね。一応、人並みに、傷つくような作りになっているんだから。断っておくけど、取り扱い説明書を見せろとか、言わないでよね」
「悪気は無かった。多分、慣れていないせいだと思う」と昌は言う。
翌朝、昌は美香からもらったチョコレートを食べた。美香にもチョコレートを勧めてみる。
彼女は言った。「ありがとう。気持ちだけもらっとく」
そして美香は、頬を赤く染めながら、白くてひらべったい腹を出し、脇腹に設えられたバッテリーに充電を始める。
午前十時を過ぎた頃、ロボット研究所の職員が昌の部屋を訪れた。美香を連れ戻すために。
「済みません。想定外ではないのですが、部外者にここまで惚れるというのは、計算外でした」
「計算外」と昌は呟いた。「惚れっぽいんですか」
職員は大きくかぶりを振る。
「報酬系の神経回路にバグがあるのかもしれない。反応が、あまりにも良すぎるんですよ」
美香はベッドの上に正座して、なかなか動こうとしなかった。
彼女は、明らかに怒っている。
「……帰るのが嫌だと言ったら?」低い声を出して職員に訊く。
「遠隔操作で電気系統を焼き切ることになるね」と職員が答えると、美香は舌打ちして、のろのろと立ち上がる。
「美香」
昌は声を掛けた。「どうして俺に惚れたんだよ」
美香の戸惑った表情を、最後にもう一度見てみたかった。
「人が人に惚れる時と変わりません」
美香が返事をするかわりに、職員が首を振りながら呟いた。「ロボットも同じです。自分と合う相手かどうかを、瞬時に嗅ぎとるんですよ。第六感ってやつですね」
美香の表情には既に、彼女が昨晩見せた当惑は浮かんでいない。強い目で、昌のことを見つめている。
「ねえ。パビリオンに遊びに来てよ。私たち、きっと合うから」
部屋を出る間際に、美香が昌に向かって言い、ウインクしながら、小さくて光るものを投げて寄越した。昌は反射的に右手を出し、それを受け取る。
部屋が静かになった。
昌はゆっくりと右の掌を開き、受け取ったものを見る。
美香の小指だった。
白くて小さな小指。ピンクとパールのネイル・アートが施されている。
根元から、細いコードが顔を覗かせていた。
昌は、すこし首を傾げ、身じろぎもせずにその小指を見つめていた。(了)