器官なき身体の覚書2
イリヤ
多様体の夢の本質は、おのおのの要素に対する距離を変更するということである。変化する距離は、増大することも減少することもなく相対的に不可分である。蜜蜂の大群は、しま模様のユニフォームのフットボール選手の乱闘となり、トゥアレグ族の集団に変わる。狼の群れはまた、キプリングの“狼少年”によってドゥルス族の一味に対抗し、蜜蜂の大群と合流する。キプリングは狼たちのリビドーの意味をフロイトよりも理解していた。それ自体において作用する力のなか、多様体を占める物理現象のなか、それらを内部から構成するリビドーは異なる流れに分割されることなしに、構成することはない。フロイト自身、“狼男”のうちにさまざまなリビドーの流れを認めているだけに、私たちは、フロイトの単一なものへの単純な還元に驚かざるをえない。狼とはそれ自体が群れであるというのに。一瞬で把握される多様体であり、ゼロへの接近と離反を繰り返し、分割不可能な距離に把握される多様体であるのだ。ゼロとは器官なき身体のことである。私は自分が狼になるのを感じる、狼たちをつなぐ所縁の狼になるのを。フロイトが聞きとるのは唯一「僕が狼にならないように助けて」という叫びだけだ。問題は表象ではなく、狼、狼たちである強度、速度、温度である可変で不可分な“隔たり”である。蟻集。狼瘡化。“父”の形象で結ばれた肛門機械と狼機械を関係づける、オイディプス装置の是非は?肛門機械もひとつの強度、距離ゼロへの接近を表象している。狼の群れはほかならぬ肛門の領域。狼になること、孔になることは錯綜したさまざまな線にしたがい自己を脱領土化することなのだ。一匹の狼もひとつの孔も、無意識というものの粒子であり、分子的多様体の要素であり、粒子の生産•行程なのだ。物理学者が言うように、孔とは粒子の不在なのではなく、光よりも速くすすむ粒子のことなのである。肛門は飛び、膣は加速する。去勢などほんとうは不在なのだ。
*
多様体の話にもどろう。多様なものを純粋に思考するため、統一性や全体性に仕立てあげるのをやめるため、弁証法にあてはめて思考しないため、多様体を弁別するために、あの実詞が生みだされた。数物理学者のリーマンにおいては離散的•連続的多様体の区別が、マイノングとラッセルにおいては量的可分•強度的な多様体の区別が見いだされる。ベルクソンにおいては数値的•質的多様体の区別がある。樹木状の多様体はマクロ多様体で、リゾーム状多様体はミクロ多様体である。一方は外延的、そして他方はリビドー的な分割されえない粒子からなる。論理基盤はただひとつである。カネッティは対立しあい、浸透しあう二つのタイプの多様体を区別している。まさにそれは“群集”と“群れ”の二つのことだ。カネッティは、群れのなかで各人は単独であると指摘する。洗練された言葉でいえば“社交性”と“社会性”の区別である。問題は二つのタイプの多様体における二元論によって対立させることではない。二つの多様体、二つの機械があるのではなく、ただひとつの機械状アレンジメントである“複合体”を、生産かつ分配するのだ。しかし、精神分析はそれに対し何をいうのか?ーオイディプス、オイディプス、オイディプス…。あらゆる多様体は、押しつぶされてしまう。
*
またしても話題が、パパーママー僕の三角形に逆もどりしないために。リビドーはあらゆるものに浸透している、あらゆるものを同時に考慮にいれることー。ひとつの社会機械あるいは組織された群集が、分子的無意識を持つこと、この無意識が群集解体の傾向を示し、解体の過程と構成要素を決定するありように。みずからの所属する群集の群れにかならずしも似ていない、特定の群れが無意識を持つ仕方に。ひとつの固体または群集が、その無意識において、べつの群集や固体に属する群集と群れを生きようとする仕方に。つねにその人物をひとつの群集のなかで把握することが、いかなるグループからでもその人物を抽出することが、あらゆる多様体に接近する近道である。「愛する私は“あなた”を分類することができない。なぜなら“あなた”はアポリアであるから。」(ロラン•バルト)。また、さまざまな多様体をさがすことー、そしてそれらを自己の多様体と接続させることこそが、求められている問題である。それはまさに多様体の多様体ー。器官なき身体のうえでの非人称化の実践である愛の在り処。それが不完全な愛など存在しない。そしてこの非人称化の至高点においてはじめて、誰かある人物が“名づけ”られ、自分の姓あるいは名を受けとり、その人物が属しかつ属するさまざまな“多”を瞬間的に把握する、最高の強度の識別可能性を獲得するのだ。(カフカにおいてフェリーツェが商社のインタフォンと切り離せないように。)
*
個人的な言表などというものは、ない。言表を生産するもろもろのアレンジメントがただ存在するのみだ。アレンジメントとは本質的にリビドー的であり、無意識的なものである。否、無意識そのものである、とさえ言える。すでに私たちは知りすぎている。もはや私たちは互いに区別されたもろもろの機械について語ることさえできず、ただ互いに貫きあい、刹那的に多様体について語ることができるだけだ。私たち一人ひとりがこのような操作にとらわれるなか、まさに自分の名前において語っていると確信しているとき、個人はその言表を再生産しているのだ。むしろ言表を生産するとき、個人は自分の名前において“語る”のである。
*
ドラマが演じられるのは、他ならない器官なき身体である。砂漠の全域をひたすリビドー、問題にされるのは群集の領土化か群れの脱領土化か?個人的な言表などはない、と言った。そんなものは決して存在しない。あらゆる言表は、ひとつの機械状アレンジメントであって、集団的な動作主体の産物である。だが、固有名というものは、一個人を指示するものではない。個人がみずからの真の名前を獲得するのは、非人称化の果てに開く、多様体に向きあった自己自身を得たときである。人称を捨象するというバプテスマ。固有名詞とは、ひとつの多様体の刹那的な把握である。しかし、精神分析は多様化に対し何を理解しているだろうか。去勢、去勢?それは狼たちの群れに、ひとつの孔、ひとりの父親しか見ておらず、野生の多様体に飼いならされた一個人しか見いだしえないのではないか。精神分析がひたすらオイディプス的言表を選別してきたことだけを非難したいのではない。オイディプス的な言表を用いて、患者に、人称的•個人的な言表を保持しながらみずからの名前において語っていると、信じこませてしまう点をである。だがそれも罠である、“狼男”は決して語ることができないのだから。なぜならどのような鳴き声にさえ、フロイトは「それはパパだ」と答える。ーしかし、狼男のうちで言表を生産していた機械状アレンジメントが明るみにだされたときにはじめて、狼男は自分の名前において語ることができるのに。“狼男”は「六匹か七匹の狼なんです!」と叫ぶ、フロイトは応じる、「子やぎのことかな?それは面白い、子やぎたちをのけると狼が一匹のこる、それは君のパパさ」と続ける、狼男は疲れ果て器官なき身体におけるリビドー的なものすべてとともに眠りにつく。間もなく、戦争がくる。それは自己を取り戻す奪還戦争である。そのとき、“狼男”たちはそのようにして、喉をつまらせたまま。