詩だとか脳だとか
青色銀河団
絵を見るときは絵だけを見るようにしてます。すごいなあとか、いまいちだなあとか心の中で思いながら。絵って要するに平面における色の配置なんだけど、すごいなあといまいちだなあとに(程度の差はあれ)全く分かれてしまう。
それで批評なんだけど、すごいなあといまいちだなあとの違いは何なのかを「そうだったのか!」って明らかにしてくれる批評があれば、それはすごい批評だと思う。ぜひ読んでみたい。
ぼくは極端に言うと、詩って文字の配置のことだと思っているんだけど、やっぱりすごいなあといまいちだなあとに別れてしまう。現代詩文庫に載ってる詩とか(というかあまり詩集をもってないんですが)すごいなあと思うんですが、なんですごいなあなのか全然わからない。意味もよく分からない。なのにすごいなあと感じるのは何故か。
使ってる言葉が違う。文体が違う。言葉の配列が違う。のかなと思って、以前田村隆一の詩集から名詞・動詞・形容詞・副詞・形容動詞を相当数づつ抜き出して、文体を骨組みだけにして、名詞の場所には名詞を、動詞の場所には動詞をランダムに配置するってのをjavascriptで作ったことがあります。そうすると確かにそれっぽい言葉の群れはできるんですが、全体としては、いまいちどころか全然だめ。何回も何回もシャッフルしてちょっとづつ使えそうなところを拾ってくるくらいしか使い道がありませんでした。
言葉同志の有機的なつながりというか背後の意識の流れみたいのが全くないんです。
なんかタンパク質のスープを掻き混ぜ掻き混ぜして生命を作り出す試みみたいで、全然成功しない。徒労に終わってしまう。
きっとこのプログラムを完成させるには、生成された文の群れを、評価する機能を加えないといけなかったんでしょうけど、すごいなあといまいちだなあの仕組みが分からないので作れるはずがありませんでした。
だからやっぱり詩は人間の意識の介在が必要で、しかもそれが優れた意識のフィルターを通して生まれてきた言葉であるほど、すごい詩なんだと思います。もしかしたら本人も何故この言葉が出てきたのか正確には説明できないかもしれませんが。
そうするといい詩を書くには、すぐれた脳が必要で、果たしてそれは努力でなんとかなるものなんでしょうか。
ちょっと悲しくなってきます。
しごく当たり前のことをとりとめなく書いてしまってすみません。